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社長室/2006年11月

社長室/2006年11月


11/01水(その83)

カルメンの自由




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 [パセオ1986年1月号/表紙はわれらが小島章司。わ、若っ!]



★新春ビッグ対談

 20年前の新年号の目玉(全7頁)は、「濱田滋郎VS逢坂剛」による新春ビッグ対談。
 膨大なレコードの重みで抜け落ちそうなスリルに満ちた、小田急・柿生は濱田邸の二階でその対談は実現した(85年11月23日)。
 求道する両雄の、そのあまりにも真摯なやりとりに、司会進行役であるはずの私はひと言も発することは出来なかった。
 いや、ふた言は云った。「そ、それではお願いします」と「あ、ありがとうございました」……(TT)。
 この翌年、逢坂剛は永遠の名作『カディスの赤い星』で直木賞を受賞。




★ガデス自らを語る

 自由は世の中で最も尊いことです。
 自由を獲得するには、闘わねばなりません。
 なぜなら誰も自由をプレゼントしてはくれないからです。

 私の『カルメン』では、最終的にこの問題をテーマにしています。
 カルメンは軽薄な女として過去何度となく演出されてきましたが、まったくそうではなく、男性から尊重され、男性と共に行動し、感情の私有物化を信じない女性です。
 愛する時には愛し、恋が終われば関係を切り、自分の自由が守れなければ死を選ぶのです。








11/02木(その84)

片道切符




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 [パセオ1986年2月号/表紙はビセンテ・エスクデーロ]



★初の出張取材(私の編集後記)


1985年12月20日
 仕事に一応のケリをつけ、ありったけの現金をつかんで新幹線に飛び乗る。
 新大阪から一路西宮の三好保彦先生(ギターの大御所)のお宅へ。
 次から次へとアッと驚くド迫力面白話。単発のインタビューで扱うにはあまりにも勿体ないので急きょ連載を願う。再三辞退されたが、四時間粘って承諾を頂く。出足好調。
 奈良県生駒市在住で旧知のピアニスト堀川圭嬢が梅田まで車で出迎え。お母上の関西風スキヤキのおもてなし、一宿二飯の恩義を受ける。


12月21日
 難波経由で肥後橋に赴き、日本コンサート・フラメンコギター振興会会長の松並氏とギターの吉川二郎氏を取材。
 次は神戸元町“ロス・ヒターノス”。バックを両肩にぶら下げカメラを首に引っ掛けて地図を見い見い歩く姿は我ながら不憫。夕刻到着、阿藤久子さん、石川敬子さんのアルティスタ訪問と藤塚栄二さんのインタビュー。
 東仲一矩、大橋卯三美、石川敬子の三氏と、ヤッチャン問題で大騒ぎの夜の元町に繰り出し乾杯。大橋氏の車(何故か人は大橋タクシーと呼ぶ)で今宵の宿泊所、苦楽園の東仲邸へ。愛犬アルフォンソに舐め回しの祝福を受ける。


12月22日
 天王寺でギタリストに吉川哲夫さんと面談の後、梅田のビジネスホテルにチェック・イン。東京の仕事を電話で片付ける。
 夕刻からホテル近くのスナック“国境の南”に於いて関西アルティスタ7名による3時間余りの座談会。喫茶店で打ち上げて、ホテルへ戻り関西取材の総括。
 関西のアルティスタについてまず感じることは、さっぱりしたイイ人が多く皆仲も良いのだが、ゆえにリーダーシップを取る人がおらず全体の団結はまだ弱いという点。まあでも東京にしてもそれは同じか。
 ショックだったのは本誌が東京周辺の一部のアルティスタ、及び愛好家の為の雑誌と受けとられている点。全国誌を標榜し偏りには充分注意していた心算だったがまだまだ甘い。本誌イベント情報が関西に於いてもイベント動員を増強しつつある点、これは嬉しい。


12月23日
 朝一でチェックアウト、電話代の高さに目が眩む。夕べの打ち上げで定期購読料を徴収出来てなかったら、名古屋あたりから歩く一手だったという怖い話。
 車中、取材のテープ起こし。4月には再び西の取材をと決意。年末の忙しい中、快く取材協力下さったアルティスタ諸氏に感謝!








11/03金(その85)

編集長交代




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 [パセオ1986年3月号/表紙はアントニオ・ガデス]



 「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からみれば、やはり狂気じみていることになるだろう。
            (ブレーズ・パスカル『パンセ』)

 考えてみると、こちらの狂気からあちらの狂気へと、渡り歩いて生きて来た。『ぱせお』の狂気も随分薄まったので、わたしも編集長を降りることにした。すぐそこまで別種の狂気が忍び寄って、顎(あぎと)を研いで待ち受けている。
 フラメンコに関していま思うのは、もっと楽しみたいということ、そのためには少し理解を深めたいということだ。自分が老いるのは早かろうが、フラメンコは逃げないだろう。ゆっくり行くとするか。
                     (KAKEMITSU)




 これは、架光時紀(かけみつ・ときのり)初代編集長の最後の編集後記。
 ちなみに“パセオ”は架光の命名だ。
 債務責任者の私は、次号より編集長を兼任することに。
 どちらもノーギャラ、ではなく、どちらも泥沼の持ち出しだった。


 「架光は“鋭いカミソリ”、小山は“鈍いナタ”」。
 当時はこんな風に評されていたようだ。
 しょっちゅう喧嘩だったが、いいコンビだったと思う。
 架光は私より四歳年長。こののち極めて優れた詩集を出版する。

 自らカタキ役を引き受け、鋭い問題提起の数々によって、閉鎖されたフラメンコの世界に必要な風穴をガンガンあけまくった功績のデカさには、今さらながらあきれるばかりだ。
 敵も多く作ったが、そのほとんどは後年、彼の布石の健全さに感嘆の声をもらした。

 本質的に彼は“義”の人であり、あれほど潔くアートを愛する才人を、後にも先にも私は知らない。








10/06月(その86)

逆ギレ勝負




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 [パセオ1986年4月号/表紙はパコ・デ・ルシア]



 「史上最低のヘッポコ新任編集長、パセオの行方を語る!」と題する駄作を、貧しい誌面の中から2頁も割いて掲載。
 例によって実にくだらねえことをさんざ語ったのち、最終的に私はこうブチ切れている。


     ――――――――――――――――――――――――

 「パセオ存続のためのポイント」

 よほどのことがない限りは、気合いもろとも公約通り丸々3年、残り16号を続けてゆきたいと切望してます。
 ただし、全36号を発行し終えた時点で、最低限の経営状態に達していなかった場合で、しかも肉体的・経済的に続行不能な場合は廃刊にします。

 最低限の経営状態とは、原稿料等支払うべき諸経費が支払えて、かつ専任スタッフ一人分(現在募集中の三代目編集長のことです!)の給料が支払える状態のことです。
 具体的な目安で言えば、実売部数を2000部に、かつ広告量を現在の3倍に、といったところです。
 実売目標の2000については、これは日本全国のフラメンコを仕事をする人、趣味とする人の総数をはるかに下回りますし、又2000の実売があれば広告を3倍にすることも可能かと思います。

 前項の方針のもと、残り16ヶ月の間にこのパセオを、アマ・プロ問わずフラメンコに惹かれる方々のうち、最低2000名の方に有料購読してもらえるだけの内容と魅力を備えた雑誌に成長させてゆけるか否か。これが存続か廃刊かを決めるポイントになると思います。

     ――――――――――――――――――――――――


 ひえー。なに逆ギレしてんだよおー。
 ほとんど脅しじゃねーか。


 生意気盛りの30歳。
 クラシック系のプロモーターからジャズ雑誌の事務局まで、音楽関連のなんでも屋(有限会社)でどうやら食っていた私だが、毎日6~12時間の手間をかけても、平気で毎月数十万円の赤字を出すパセオは、まぎれもなく親の血を引く極道息子だった。

 実を云えばこの逆ギレも、当時急速に増え始めたパセオの借り読み層に対する切実な訴えだったのである。
 当時のマーケティングから、借り読み層の5人にひとりが買ってくれれば、何とかパセオを続行出来る見当がついていたのだ。
 おいらも体張って頑張るので、今は零細だけど実力だけはどこにも負けない、このフラメンコ村の明るい未来のために、毎月300円の村会費(特典はパセオ進呈)を払ってください、という強気で傲慢なお願いだったのだ。

 「アートは、他を頼らず、それを愛する一人ひとりの心意気で守ってゆくもの」と認識する自立的な理解者をどこまで増やせるのか?
 いや、それどころか、かえって反発を喰らって自滅の時期を早めてしまうのか?


 と、まあ、本人的にはかなりヤケクソ的な勝負に出たつもりらしい。

 で結局、この一人よがりの真剣勝負が、可もなく不可もなく、まったくの空振りに終わったことは云うまでもない(TT)。








11/07火(その87)

何てステキな葛藤




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[パセオ1986年5月号/表紙はガデス&オヨスの映画“恋は魔術師”]



 静寂を歌うシギリージャ……。

 この達人(当時32歳)の奏でるギターソロ、恐るべき深さを持った“シギリージャ”によって、24歳(パセオ創刊4年前)の私は日本のフラメンコの世界にスコンと吸い込まれたのだった。

 この号(1986年5月号)のアルティスタ訪問は、私の青春に決定的なインパクトを与えてくれたギタリストの三澤勝弘さん。
 今読んでも濃厚かつハイレベルな内容で、全部掲載したいところだが、苦悩するアーティストの“葛藤”を垣間見る部分を抜粋で。



 その頃はニーニョ・リカルド(注:パコ・デ・ルシアにも影響を与えた大ギタリスト)一辺倒でしたから、僕のフラメンコ観というか、むしろギター観に大きな影響を受けました。
 彼のやることなすことすべて、フラメンコとしてギターとしてそれが最良のものと信じ、また自分も少しでも近づきたいと努力しました。

 また、当時はリカルドのスタイルを引き継ぎたいという気持ちも強くありました。その頃はスペインの中でもリカルドのスタイルというものが消え去りつつある時期でしたから余計に。
 主流がパコ・デ・ルシアあたりにまさに移らんとする頃だったのですね。
 スペインでそういうものが受け継がれてゆかないのならば、外国人である自分がそういうものを継承してゆくこともまた意義があるのではないかって思ってました。よし、自分がリカルドを継いでゆこうって。  まだ若かったし、気だけは大きかったから(笑)。

 帰ってきてからもそういう風にやっていたのですが、ある期間過ぎると今度は、やはり自分のものを大切にしなくてはいけない、そうでないと自分が伸びていかないっていう風に思う時期がやってきて……。
 それでまたそういう期間がしばらく続くのですが、無理に自分のものを弾こうとすると安っぽいものができてしまったりとか、そういう壁にぶち当たる。それで再びリカルドに戻ってみると、その方が実際に自分が生き生きとしてきたりしてね。ズッとそんなことの繰り返しでした。

 自分にとってフラメンコそのものであるリカルドのスタイルの継承、自分の持っているものを自然な形で表現すること、その二つの事柄の接点を一時期やはり随分考えました。
 自分が自然に出れば出るほどリカルドとは離れてゆく時期もありましたし。

 結局はわかりませんね。

 ただ、リカルドをとらえてゆくには、フラメンコという枠からとらえてゆくのでなくて、演奏を通してリカルドという人間の内側からとらえてゆく方がベターであるとは感じています。

 リカルドの演奏から感じることは……非常に存在感はあるのだけれど、けっして図太いものではない、むしろ少し細めで女性的な面を持ったもの、ただ、それがあやふやなものだということではなくて、確固たる存在があって、それでいて枝葉や遊びがある………こまやかですね。



 当然ながらニーニョ・リカルドのシギリージャは天下の音楽遺産だが、三澤勝弘のシギリージャに私は、例の「青は藍より出でて藍より青し」を思いきり感じるわけだ。この夏エスペランサの木曜会で呑んだ折りに、本人はそれをきっぱり否定されたが。

 宇宙の神秘さえ想起させる、あのシギリージャ独特の休符の間(ま)。
 これまでに数百名のギタリストによる生シギリージャを聴いたが、あの静寂の波間に、あれほど深く豊かな詩情を与えることのできる弾き手を、私は他に知らない。








11/08水(その88)

フライング情報(カンテの肝に触れるまで)




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 写真:大森有起/文:菊地裕子



 11月20日発売のパセオフラメンコ12月号。
 その「ビボ・コン・フラメンコ」はお待ちかね、人気カンタオーラ川島桂子の登場だ。



 「『曽根崎』では日本語の歌だから、カンテとは身体の全然違うところを使ってる感じで、初演のころはすごい違和感があったの。
 もっと“お初”に近づきたいと思って、3回目ぐらいから少しできたような気がしたんだけど、ヘレスでは、すごく近づいた!って思えた。
 それまでは、カンテは身体に無理して“作って”歌って、日本語の歌も“作って”歌ってたんだと思う。それがヘレス公演では、私の中でひとつになってきた」

 公演を見に来たドローレス(アグヘータ)は川島の歌をとっても喜んでくれ、こう言った。

 「あんたがあんな声を出すなんて知らなかったけど、とても似合ってる!“voz dulce”(甘い声)が、本来のあんたよ」

 川島が、「でも、フラメンコじゃないでしょ?」と言うと、「それは関係ない!」とドローレスは応じたという。

 関係ない ―――― なんてすてきな言葉だろう。
 この時、おそらく川島は、カンテのこうあらねばならぬと自らに課していた呪縛から、少し自由になったのではないだろうか。




 その昔、川島桂子は個性的で超優秀なグラフィック・デザイナーだった。もちろん天然系だったが。
 単行本の装丁を幾度か彼女に依頼したことがあるが、その意表を突く出来栄えの素晴らしさは、そのたびに私たちを狂喜させた。

 カラオケがめっちゃうまい、その後の川島の大冒険にもビックリさせられることばかりだったが、その最たるものが“本格派カンタオーラ川島桂子”の誕生だったのである。








11/09木(その89)

フライング情報(成長の証)




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 写真:川崎栄/文:谷口哲哉(パセオ編集長)




 11月20日発売パセオの巻頭カラー頁 [ Nuevos Aires /新しい風たち] は、リサイタル(10/11エルフラメンコ)を終えたばかりの今枝友加さん。
 約百名の人たちがチケットを入手できずに涙を呑んだという人気抜群の期待の星だ。



 フラメンコだったら、それでいいのか?
 観る人が楽しめなければ、意味はない。
 そして、縛られちゃだめなんです。
 いろいろ気にしてたら、やりたいことなんて、何もできませんよね。



 1978年愛知県出身。2003年日本フラメンコ協会新人公演カンテ部門、2004年同バイレ部門で奨励賞ダブル受賞。
 まだ二十代。久々にガチンコ本格派の登場である。








11/13月(その90)

フライング情報(曽根崎心中/六年目の挑戦)




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 写真:川崎栄/文:谷口哲哉(パセオ編集長)




 2001年の初演から六年連続の上演。
 そう、『FLAMENCO曽根崎心中』だ。
 フラメンコの世界では異例のロングランである。

 もうすぐ発売となるパセオ12月号では、主演のお二人(鍵田真由美、佐藤浩希)に、プロデュース・音楽等を担当する宇崎竜童、阿木燿子の両氏を迎え、全4ページのデラックス座談会を実現!
 各氏の発言をちょびっとだけフライング掲載しよう。




 初演の前、まっさらな状態のとき、阿木さん、宇崎さんから楽曲をいただいた。さて、この楽曲にどうやって振りを付けていこうかと考えていたんです。
 私がスタジオに行くと,真っ暗なスタジオに大音量の音楽だけが聞こえる。
 なかを覗いてみたら、そこで佐藤は、まるで踊らされるかのように振りを作っていたんですね。
 自分で作るんじゃなくて、楽曲に踊りを作らされるように。
                   (鍵田真由美)



 僕はいつも、カンテを聴きながら、歌詞に触発されて振付を作るんです。
 それとまったく同じアプローチで作ったのが『FLAMENCO曽根崎心中』。
 こういう動きはフラメンコ的、こういう動きは日本舞踊的だとか、そういうことはまったく考えなかった。
 楽曲から受けたイメージをもとに、自分に降りてきた感情をそのまま振りにしていったんです。
                    (佐藤浩希)



 作詞と台本を書いている立場からいえば、当たり前ですが、この作品には心中に至るまでの筋道があるんです。
 その道筋をフラメンコで紡いでいくわけです。
 実際にこの作品を手掛けてわかったんですが、突き詰めたときの人間の情念というか、死と生に対峙したときの人間の感情を表現するのに、フラメンコはぴったりだなって。
                    (阿木燿子)



 何かを伝えるっていう意味において、この作品は「フラメンコの世界」ではルール違反を犯しているかもしれないね。伝統的なフラメンコを継承している人たちから見れば。
 でも、何かがブレイクするときはね、常識を覆すってことが必要なんですよ。
 それは、往々にして、周囲の力や時代の流れが作用する。何かに求められて、やらざるをえないってことかな。
                    (宇崎竜童)




 彼らはただ自然に、オーソドックスともいうべき想いを淡々と語る。
 目的を忘れた過度の安全志向がまかり通る今の世にあっては、彼らの発言はむしろエキセントリックに聞こえてしまうかもしれないが。

 傷つくことを恐れず、自ら信じる道を迷わず歩み続ける潔い生き方。


 し、しまった。編集長にこの正統派四氏のツメのアカ頼むの忘れたあ。








11/14火(その91)

落塵拾い




 「結局はさっ、目の前に落ちてるゴミを拾うかどーかなんだよなっ


 近ごろは金欠ですっかりごぶさたしてるが、芸能関係に人気のご近所の寿司屋さん。そこの大将がある日私にこう云った。

 さんざ語り合ったお題は、「仕事について」である。
 ネタ、技術、接客、料金がコンスタントに納得できる店の主の言葉なので、ぜんぜん説得力が違う。


 あの日から私は、眼前のゴミを拾う人になった。





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11/15水(その92)

フライング情報(幻の黙祷)




 発売迫るパセオフラメンコ12月号!
 『痛快!?フラメンコ濱田塾!!』、その第11講はタンゴスのこと(その2)。
 その枕を少しだけご紹介するが、ちょっといい話。



 フェルナンダ・デ・ウトレーラは飛行機嫌いもあってついに一度も来日はしませんでしたし、CDなどの数も限られていて、一般的知名度は低いかもしれません。
 でも、そのカンテを「フラメンコの魂」に直結するものと感じて深く敬愛する人の数は、日本にもけっして少なくありません。

 現に、「新人公演」開始直前、ある人からこう提案がありました。
 ―――― 「ちょうどフラメンコ・ファンが大勢集まっているんです。皆にフェルナンダ逝去のことを知らせ、一分間の黙祷をしませんか」と。
 ジンと来る言葉でした。

 でも、その人にはたいへん申し訳ないことに、それは実現できませんでした。
 ご存知の方がたもあると思いますが、出演希望者が年を追って多く、本当に「綱渡り」で、分刻み、秒の刻みのタイム・スケジュールを組まねばならない「新人公演」の中では、黙祷および説明の時間を取ることは許されませんでした。

 本当にごめんね、ワカバヤシ(堀越さんのまねをするわけじゃなく、そう言ってくれたのは、ほんとうにあの有名な若林さんなんです)。




「逆転のひかり」フェルナンダ・デ・ウトレーラ.jpg









11/16木(その93)

荒野ふたたび




  『青年は荒野をめざす


 その昔、こんなタイトルの大ヒット小説があった。
 五木寛之さん(←フラメンコファン、他にも『青春の門』『鳥の歌』『よこはま・たそがれ←?』など有名作多数)の初期の名作である。
 十代の私も夢中になって読んだクチだ。



 でね、交換誌をやりとりしてるスペイン情報誌『OCS NEWS(239)』に、こんな感じの広告(↓)が載っていた。



       荒野をめざした

     元青年よ

    団塊指圧教室を覗いてみないか






 どーどす。


 郷愁にも似た想いで、私的には手ぬぐい一本!








11/20月(その94)

本日発売!パセオフラメンコ12月号





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 フラメンコに一発でハマる人は多い。

 ギター、カンテ、バイレ。いずれもそうだ。
 高校時代にパコ・デ・ルシアのフラメンコギターに一発でやられた私が、現在パセオフラメンコの窓際(生ゴミ置場隣接)の社長デスク(中古)にこうしてへばりついているのもそうしたインパクトの結果なのである。
 いやまったく、実に強烈なアートである。


 観る者聴く者にそれだけのインパクトを与える一方、実際にそれをやる方はもー実に大変である。
 ギターは手を、カンテは喉を、踊りは身体全体を酷使することになる。
 ほとんどアスリートと云っていいかもしれない。

 だからこそ、“身体メンテナンス”は極めて重要なテーマになる。
 上達のための練習とメンテナンスは、常にセットで考える必要のある姉妹関係のようなものかもしれない。



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 今日発売のパセオフラメンコ最新号では、そのテーマに真正面から取り組んだ。
 ずばり『バイラオーラのための身体メンテナンス』と題した特集(総天然色・全16頁)である。

 そのオープニングは『もっと美しく踊るために~踊り手の身体を知る』。
 関根陽一先生(鍼灸、マッサージ)は、その冒頭でこう語る。




 プロスポーツ選手や世界大会に出場するトップアスリート、そしてプロフェッショナルのダンサーの身体には共通点があります。
 それは、正面から見て細く、横から見て太い身体であるということ。
 前から見れば、みなさん均衡がとれて、すらりとしたプロポーションですが、横から見ると、胸とお尻は、非常にしっかりしています。
 それが身体の幹、体幹(胸、腹、背中、腰)の頑丈さにつながっているのです。

 このように、踊り手の身体もアスリートの身体も、基本的には変わりません。
 しかし、アスリートは記録との闘い、踊り手は美しさの追求と、目的が異なるため、発達する部位は変わってきます。









11/21火(その95)

タブー





日曜の原宿(竹下通り).JPG



 散歩の定番、代々木公園のほど近く。
 ここ原宿は、六本木などと並び、私ら世代の江戸っ子が決して足を踏み入れることのないエリアである。


 地方出身者たちのパラダイスを侵してはならねえという、江戸っ子特有のストイックなテリトリー意識が強烈に作用するからだ。



 若いころは偽名・変装を施して、そうしたパラダイスに足繁く通ったものだが、今でもそのストイックでありながらもフレキシブルな姿勢はまったく不変である。(TT)



六本木.JPG









11/22水(その96)

変化したもの、しないもの




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 [パセオ1986年6月号/表紙は???]




 4月号(20年前の)に載せた私の逆ギレ文が、良くも悪くも評判を呼んだため、それに対する意見を載せるコーナーを設けた。
 題して『パセオをどうするコーナー』。
 まるで「他人事かよっ」みたいなノリで、我ながら相当イッテたなという感じだ。ま、明るいヤケクソと云えないこともないだろう。

 この号には、パセオが創刊した頃に、同じくカンテ・フラメンコの大巨匠アントニオ・マイレーナの追悼本を自費出版(もちろんウン百万円の赤字)したインテリ侍、小櫃治郎さんが寄稿してくれた。そのほんの一部を。



 なによりも廃刊にしようなどとは思うな。
 傾いたら休めばいい。
 そして起き上がれたら、又歩き出せばいいというのが私の考えで、やたら持続させる事にだけ価値を置く考え方に私は反感を持つが、万一廃刊の憂き目に会うことになった時、パセオ編集部が無責任のそしりを受ける謂れはない、という事をこの際言わしてもらおう。
 持続させたい意志を一番切実に持っているのは当事者であることは自明の事なのだ。



 なんかもうツブれることが前提で、あらかじめそれをフォローしてくれてるみたいな感じが、今読んでもとてもうれしい。同病相哀れむ的な連帯感が芽生えていたのだろう。
 そのころ出版界に生息していた小櫃さんは、出版界の厳しさなど一人も知る者のいない当時のフラメンコの世界の中で、私(←出版ど素人)に客観的なアドバイスを与えることのできる唯一の人間だったのだ。


 現在のフラメンコ市場は、パセオ創刊時の約100倍になった。
 “フラメンコ”の一般的な浸透度やステータスの高さはそれ以上になったかもしれない。何せ当時は「フラメンコをやってる」と云うと、白い目で見る人が多かった時代だ。
 その一方、出版事情は当時の十倍はきびしくなった感触がある。当時はまたネット時代のネの字もなかった頃だからな。


 ところで、昔も今も変わらぬものがひとつだけある。

 それは、わが愛しのフラメンコ愛好家の活字嫌いである。(TT)









11/23木(その97)

連載二十年




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 [パセオ1986年7月号/表紙はホセ・ミゲル]




 パセオのご長寿人気連載、堀越千秋画伯(&カンタオール)による『渋好み純粋正統フラメンコ狂日記』。
 その記念すべき第一回目はこの号からスタートした。
 じゃ、そこからほんのちょっとだけ抜粋。



 この冬、東京の丸の内画廊で個展開催のため、僕は帰国した。
 すると、未知の〈パセオ〉の小山さんから電話があって、「一寸お話が」という。

 〈パセオ〉の存在はすでに知っていた。帰国後レコード屋で2冊程見つけて、熱烈的に激買した。
 恐らく、こんなにも入魂の読者達に支えられる雑誌も少ないのではないか。これは火に油を注ぐ雑誌である。危険な雑誌ではないか、と思っていた。
 その編集長からの電話だったのだ。

 まず愚妻に1才の娘を背負わせて偵察にやった。
 すると帰宅していわく、「面白いよ面白いよ、小山さんて、カサ・グラナダのヘスースそっくりだよ。」というので、確かめに出かけた……。

 その折りの「話」というのが、この原稿を稿料ナシで書け、というのである。
 本当に小山氏は親愛なるヘスースによく似ていたので、思わずウンと言ってしまったのだった。




 二十年前の話である。
 画伯の連載はパセオ最新号では215回目を迎えている。
 これは月刊誌の連載としては驚異的な数字なのだ。
 理由は簡単。ものすごく幅広い層に人気があるからだ。
 休載中も『人生相談コーナー』を引き受けていただいたが、あれも面白かったなあ。想像つくよね。

 それにしても、この連載がまさか二十年続くとは、あの当時いったい誰が予測できたろう。
 パセオの次の号がほんとに出るかどうか? 業界でそんな“賭け”が流行ってた時代だったのである。








11/24金(その98)

更新忘れりゃ即廃刊





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 [パセオ1986年8月号/表紙はマヌエル・カーノ]




 今月より、購読料が切れた方に別便ハガキでお知らせすることになりました。催促ハガキがこない内は安心していてください。
 さて今月は恐怖の大量購読更新時期に当たってまして、更新手続きを必要とされる方はザッと300名。
 更新漏れの恐怖を少しでも緩和するために今月から郵便振替票を添付しました。現金書留なんかだと面倒臭い上に手数料を400円以上ふんだくられますが、右ページの赤っぽい票を使うと手数料がタダの上に、書込みや手続きが60秒位で済む訳です。
 『手続き1分、購読1年』とか『更新忘れりゃ即廃刊』とか有名な格言もありますので、どうか皆様よろしく。

 この8月号でパセオも丸々2年。
 新連載が好評を博しているマドリーの堀越画伯の「恐らくこんなにも入魂の読者達に支えられる雑誌も少ないのではないか」とのご指摘の如く、パセオはまさにそれによってここまで来ました。
 そしてこれからも、読者エネルギーの総量が今後のパセオを決定付けて行くことでしょう。
 我々編集部は、芋は芋なりに全力を尽くすのみです。




 1986年8月号。

 ちょうど創刊満二年にあたる号だ。すでに満身創痍である。
 逆ギレ街道を突っ走る、ただひたすら厚かましい(↑)私の編集後記。
 “脅迫シリーズ”第二弾である。
 気弱な一匹狼だった私は、フラメンコの出版事業を通して、気弱で厚かましい一匹狼に変貌を遂げたのかもしれない。









11/27月(その99)

市民権




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 [パセオ1986年9月号/表紙はアントニオ・ガデス]




 1986年9月号の編集後記より。



●ガデス旋風もひと段落だなと思ってたら、NHKやら日テレやら、あるいは大手週刊誌などから、ここ最近再びフラメンコに関する問合せが相次いでいます。
 やっぱりガデスの一般へのインパクトは強かったんだなぁ、思わず又表紙に使ってしまいました。撮影者は人気爆発“フラメンコアーツを撮る”の渡辺亨さんです。

●商業劇場がいよいよフラメンコに注目! 博品館劇場の第一回フラメンコ・フェスティバル、先方から全面的な協力を要請され、勿論本誌としても出来る限りの協力を惜しまないつもりです。そのかわり第一回と銘打つ以上は最低第百回くらいまでは続けていただきましょうね。

●原因不明の発熱に見舞われ、4~5日ばかり38~40度をさまよいながらの編集作業。体はポカポカ、頭は酔っぱらい、おかげでクーラー代と酒代がずいぶん節約できました。



 逆ギレに高熱が加わり、さらにイカレポンチ度を増す私。

 当時はフラメンコ・ストリップなんかの影響もあって(私は大好きだったが)、フラメンコの評判は一般的にあまり芳しいものではなかったのだ。
 “ユニバーサルなアート”に立脚したアントニオ・ガデスの全国公演はそうしたイメージを根底から覆した。

 「フラメンコ習うなんてとんでもないっ!」

 それまでこう云ってた世のお母さんお父さんたちは、
 「へえー、いいじゃないのー、フラメンコっ!」
 と、手のひらを返した。

 「おせーんだよ、おめーら」
 というお下品な言葉を、私はお上品な微笑みとともに呑み込んだ。


 日本におけるフラメンコの市民権が確立されたのは、まさしくこの時期だった。








11/28火(その100)

われても末に





 瀬を早み岩にせかるる滝川の
    われても末に逢はむとぞ思ふ

                 崇徳院




 その昔、ビンボーな小山家では百人一首のカルタ取りが盛んだったので、中学に上がる頃には自然と百首をそらんじるようにはなっていた。優勝賞品だった不二家のパイ(三つ)のおかげである。
 もちろん私のことだ、肝心の歌の意味などわかりゃしない。

 そんなんでほとんど忘れちまったが、それでも時々思い出すのが冒頭のダイナミックな恋歌だ。
 この和歌ばかりは、人気落語「崇徳院」のテーマになってることもあって、大の落伍者である私とは切っても切れない縁にあるのだ。



桂枝雀/崇徳院.jpg
 [桂枝雀 落語大全(3)/崇徳院、ほか]東芝EMI/2000年



 この烈しい名歌の生まれた歴史的背景から考えると、権力争いに敗れた崇徳院の強烈な“怨念”とみる方が妥当なのかもしれないが、あえて“恋歌”として評価した後世の見識を、私などは好ましく思う。

 テキトーに現代語に訳せばこんな感じか。

 「速い流れの川の瀬。岩にせき止められた急流が二つに割れる。
 今は別れるが、きっといつか、再びひとつに結ばれよう!」


 上の句「瀬を早み岩にせかるる滝川の」におけるスリリングな情景描写。下の句では一転して「われても末に逢はむとぞ思ふ」と決意表明する鮮やかなパッションには思わずのけぞる。



 割れても末に逢わんとぞ思う。


 それにしても、なんて潔いロマンティシズムだろう!
 まるでフラメンコじゃねーかよ。

 
 ……ところで。
 実は今日、まさしくそんな感じなものを観に行くのだ。
 そう、大当たり、『FLAMENCO曽根崎心中』である。
 もう何回観たかわからんが、毎度ググっとやられちまう。

 折りしも、今日のお江戸は涙雨。
 絶好の曽根崎日和かもしれない。








11/29水(その101)

老化現象




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 [パセオ1986年10月号/表紙はカマロン・デ・ラ・イスラ]



 カマロンが表紙のパセオ1986年10月号。

 ぼんやり眺めていたら、表4(裏表紙)には『小島章司フラメンコの世界/瞋恚の炎』、表3(裏表紙の裏)には『佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団/エレクトラ』の公演広告が載っている。

 懐かしいなあ。
 二つとも凄い内容の公演だった。たしか、どちらも大きな賞を受賞しているはずだ。

 小島章司さんの『瞋恚の炎』は、碇山奈奈さんの『忠臣蔵』や、鍵田真由美さん佐藤浩希さんの『曽根崎心中』に先駆ける、日本の古典を題材にする創作フラメンコの最初の傑作だったと思う。その時は、入交恒子さんが重要な役回りを見事に踊りこなした記憶がある。

 一方の佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団の『エレクトラ』は、ギリシャ悲劇に素材を取った大がかりなフラメンコ・スペクタクルで、そのド迫力と舞踊団の一糸乱れぬアンサンブルには驚かされたものだ。

 当時は今よりさらに、プロアマ問わずいわゆる“プーロ・フラメンコ”志向が強い時代だったから、この二つの公演がフラメンコの世界の人たちに強い関心を持たれることはなかったのだが、むしろ私はこの二つの作品にフラメンコの未来への明るさを感じていた。

 “プーロ”と“モデルノ”、“タブラオ”と“テアトロ”などは対立構造で捉えるべきではなく、むしろ相互補填する関係にある、というのが私の考えだったが、自分の属する流派以外はみんな敵みたいな当時の風潮は、なんだか熱血三文小説的な凄みもあって、それはそれでエキサイティングな面白みがあった。


 ま、それはそれとしてあの頃は、小さなマーケットの中を、数百万から千万単位の赤字覚悟で、多くのアーティストたちが劇場公演に命の炎を燃やした時代だった。
 それから20年。ふと気付けば、現在でもそうしたチャレンジを果敢に続けるアーティストの顔ぶれに大きな変化がないことに、私はただ愕然とすることになる。


 冒険という生涯財産を考慮せずに、短期経済効率だけの観点から考えれば、今の若い世代の方がはるかに賢いことだけは確かなようだ。
 それを寂しいと感じるのは、いよいよ老化現象の表れである。








★11/30木★(その102)

異端者同盟




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 [パセオ1986年11月号/表紙は岡田昌巳、小島章司、小松原庸子]



 1986年11月号。
 現在ならブログやmixiのコメントのやりとりに相当することを、こんな風にやってたんだね。
 私の編集後記(↓)。



 購読お申し込みの振替票通信欄に半数以上の方がコメントを書き添えてくれていますが、そのほとんどは励ましやお褒めの言葉でもう毎日のけぞって喜んでるわけですが、最近感動した作品を三つばかりご紹介します。


[その1]
 いつつぶれるのかと楽しみにしながらもう2年。最近はつぶれるには惜しい記事もあったりして小生複雑な心境です。


[その2]
 定期購読にふみ切れなかった理由をあげまして、この度申込むことに決定しました。
◇字がこまかくてびっしりなので読むのが何となくつかれる。(隅々まで読まないと気がすまないたちなので)
◇ワープロの文字に何となく反発がある。(自分が写植屋なので)
◇記事の内容が何となく専門的すぎる。(フラメンコ等に関して全くの素人なのでとっつきにくい、入り込めない感じ、自分がよそ者の感じ)


[その3]
 創刊号より愛読しています。様子もずい分変わってきましたが「異端者同盟」みたいな感じが好きで読んでいます。むずかしいところですが、その辺をよろしく……









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