1984年創刊、日本で唯一のフラメンコ専門誌「月刊パセオフラメンコ」を中心に、フラメンコ情報をお届けするホームページ。公演情報から教室案内までもりだくさん。ソフト、舞踊用品などもご購入いただけます。
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道楽
散歩、音楽、もろもろ
7/3木(その271)
ほほえみ返し
朝イチのひと仕事を片付け、気分転換とばかりにパセオを飛びだす。
ご近所をちょいと歩けば、昭和30年代的な懐かしい光景が広がる。
父や母との外出はどこへ行くにも都電だった。
あのころのダダッ子感情がふいによみがえる。
このまま飛び乗って、終点(三ノ輪)で昼酒でもやるか?
でも今日はまだ、あとふた仕事ばかり残ってるぜ。
ありゃ明日でもいーだろよ。
でも夜はライブと呑み会じゃねーか。
途中どっかで昼寝でもすりゃ大丈夫だろ。
また飛鳥山で浮浪者にまちがえられてーのか?
ありゃたしかに浮浪者の方々に気の毒だったわ。
ベンチで寝るときゃネクタイぐれえ締めろやっ!
ベンツで寝るときゃそーしてやるわい。
生まじめな私とそうでない私のヨタれ話もそこそこに、
今日のところはこんなもんで勘弁してやるかと結局仕事に戻ることに。
………じゃあ、またね。
苦笑とともに都電を見送る。
上野のお墓はまた今度だ。
父母が ほほえみ返す 三ノ輪行き
6/8日(その268)
紫ソレア
逢うことの 叶わぬ夢の 彼方より
降りしまぼろし 紫ソレア
【サルでもわかる作品解説】
毎年恒例、明治神宮の花菖蒲鑑賞会(第28回/発足当初より会員は私1名)にて詠む。
「ソレア」とは“フラメンコの母”とも称されるフラメンコの代表的曲種のことだが、決して布羅綿子という娘さんの母親ではないことを憶えておいて損はない。
で、この句の季語はもつろん「ソレア」で夏。
雨の多い六月あたりに、音楽としてのソレアに親しむことの多い私が勝手に季語化したものだが何か。
美しいむらさき菖蒲にソレアを連想するところに、この作者の歌人としての傑出したセンスを感じるのは私だけだと云っても過言ではないだろう。
薄幸孤独なアイレを帯び、紫色のよく似合う、
青春を共にした、いまはなき佳人への即興オマージュ。
5/2金(その262)
ポル・ソレア
アリ
のように働き
キリ
ギリスのように遊ぶことで
アス
への活力は生まれる。
しかし人生はままならない。
キリギリスのように働き、アリのように遊ぶ私。
何かが
タラント
思う。
あるいは日常に“詩”が欠如しているのか。
詩を感じるならギリシャものね、と彼女が歌う。
シギリシャ
、と云いたいのかもしれない。
だいたいからして
単語
がわからん。
私がぱくつくコシ餡とみたらしを欲しがるジェー。
ワン団子で吠えるバ
、
おそらくそんな意図だろう。
ソレア
ないなと私はつぶやく。
(作者不肖)
※mixiやってる人は
こちら
へ
5/1木(その261)
ある春の詩
ある春の午後。
あれこれ懐かしい想いに浸るひととき。
ふと口ずさむあの詩。
みっちゃんみちみち うんこたれてえ
紙がないから 手で拭いてえ
もったいないから ナメちゃったあ
(作者不詳)
作者不肖
ではないかと私は思う。
3/28金(その258)
桜の哀しみにソレアを感じる場合
天気がいいうちに、今日もひとまわり桜三昧。
昨日のブログにずいぶん飛んでもらったみたいなので、調子こいてその
前編
。
3/27木(その257)
淡き華
どーよ、これ。
パセオから歩いて十数分。
あなたはもう忘れたかしらの神田川は芭蕉庵あたり。
本日つい先ほどの絶景でんがな。
仕事してる場合かあああああ!!!!!
と叫んどるよーでは経営黒字は出ない。
ま、しかし、
黒字
にもいろいろあるでな。
されど舞う 散るを恐れぬ あれぐりあ
2/14木(その254)
涙のバレンタイン
私のバッグにはまだ若干の余裕があるぞ。
(TT)
2/7木(その253)
脱走
まいど土日を休めるショーバイではないが、四季折々の花を愛でるひと時もないでは生きてる甲斐もない。
朝も早よからガーッと仕事をかたづけ、これから待望の梅見じゃあ。
梅の香りに酔いつつ
、まんまフラメンコの先達戦友が集結する高円寺エスペランサ木曜会に直行予定。
2/3日(その251)
白い一日
カーテンを開く瞬間の雪の朝のよろこびは、タブラオの扉を開けカンテ・ギター・パルマが飛びこんでくる刹那に似ている。
「
春もそう遠くないな
」。
そうつぶやいた途端の積雪である。
私の説の逆を行けば必ず当たる、という伝説は今日も不滅だ。
昨日からうっすら風邪気味なのだが、仕事や風邪は明日でもできる。
女心と雪の空、と云うではないか、云わねーよ。
ま、しかし、今日は今日とて今日しか出来ないことをしようではないか。
とにかく江戸っ子は理屈ぬきで雪が好きだ。
NHK将棋トーナメントで天才羽生がまさかの大逆転で異才長沼に負かされるのを横目に、連れ合いのリクエストに応える特製鬼才カレーの仕込みを終え、積雪用耐寒タイツ、特殊戦闘用ブーツ(ふつーのももひきと長靴 。TT)という完全装備でさっそうと雪野原へと繰りだす。
水を得た魚と云うか、雪を得た豚とゆーかは微妙だ。
ゆらりハナミズにさすがに遠出はあきらめ、雪化粧にときめくわが家の庭(巷では代々木公園、明治神宮などと呼ばれている)をゆっくりじっくり散歩する。
今月末にトマティートやホセ・マジャとともにやってくる
ドランテのピアノフラメンコ
を耳に、冬の醍醐味を味わい尽くそうとする52歳・男の哀愁とささやかな幸福。
遠い昔の、雪の日の想い出が走馬灯のようによみがえる。
そのほとんどは想い出すのも恥ずかしい悲惨な記憶ばかりだが、いまとなってはそのポジティブな失敗の山々に好感さえ持てるぐらいですってほんとかよっ。
センチメンタルな風情に、何の脈絡もなく脳裏をかすめる陽水の一節。
ある日、踏み切りのむこうに君がいて
通りすぎる汽車を待つ
1/25金(その249)
人格者の条件
昭和46年の昔から、フラメンコギターの
パコ・デ・ルシア
は私にとっての“神”で在り続けている。
また一方で、平成8年の昔から、御茶ノ水女子大の
土屋賢二教授
は私にとっての“仏”で在り続けている。
ある時、その仏さまはこう定義された。
ハゲ
= 毛根に
大らか
さのある人
チビ
= 垂直方向に
謙虚
さのある人
デブ
= 水平方向に
積極性
のある人
私という人が、大らかで、謙虚で、積極性のある人だとゆーことに、その時はじめて私は気付いた。
私の
神さま
が大らかなのも、おそらく同様の理由によるものだろう。
【※写真はわが家の神棚と仏壇(パコ・デ・ツチヤ風)】
7/29日その2(その244)
夏休み
発作が起きて突如書き出すかもしれんけど、とりあえずこの八月からはブログ(この社長室と
フラメンコ超緩色系
とmixi)の夏休みをとることに決めた。
主にビンボーを理由に、16歳の夏より夏休みというものから遠ざかっていたこの私にも、遅ればせながら反抗期がやってきたものとみえる。
人や火星人(←私)は、反抗しながら成長するのである。
現在3~5ヶ月くらいの大型バカンスを画策中であるが、私の計画の達成率とゆーのは、宝くじの特等当選率に匹敵するので、冒頭にも書いたように油断は禁物なのだ。
ま、しかし、みなさま方の
夏休みの宿題
も盛り沢山なので、極力計画通りに運ぶよう懸命に努力してみるつもりではある。
ところで……ブログを休んで私は何すんのか?
もちろん、これまでもヒマさえあればまぢで取り組んでいた私の本業に、迷わず没頭させていただくつもりである。(TT)
ヨランダ監督作『
しゃちょ物語
』より
7/28土(その242)
フラメンコ七転八倒
久々にいつもの逆パターンで、mixi日記をほぼまんまこちらに転載。
ワケのわからん部分もあると思うが、どーかご容赦を。
――――――――――――――――――――――――
(今日のイラストはすべて
ヨランダ画伯
)
「パセオフラメンコ社長室」なるコミュニティの、人気トピックス紹介の最終回。
その大トリは、『
フラメンコ七転八倒
』の登場だ。
「七転び八起き」でないところに迫力がチラつく、フラメンコのお笑い投稿コーナーである。
私のチョーお気に入りコーナーだけに、今日の日記は「パセオホームページ/社長室」と「
フラメンコ超緩色系
」にも同時アップするという力の入れようなのだ。
さて。 公表するのはこれが初めてなのだが、実は………
じゃ~ん。
実はこのトピックスには、大いなる私の個人的野望が秘められているのだ。
何年先になるのかわからんけど、やがては
このフラメンコお笑いプロジェクトを一冊の本にまとめたいと願っているのだ、
まぢで。
フラメンコに惚れ込んだものの、何らかの事情でファンであることをリタイヤされてしまう方々の比率は意外と高い。
ありがたいことに現在もフラメンコファンは順調に増えつづけ、しかし一方で、それを若干下回る数のファンがフラメンコから離れてゆく状況がある。
休眠中のファンの総数は、現役フラメンコファン(約十万人)のおよそ8倍~10倍程度であろうと私は推測している。
いったい、何故なんだろう?
フラメンコの巨大さ深遠さに、良くも悪くも、あまりに生まじめに構えすぎてしまう結果なのではなかろうか?
いよっ!さすがニッポン人!とホメちぎりたくもあるが、私の立場としてはややビミョー。
ああ、もったいない話だよなあ、という想いが先行してしまう。
フラメンコはライフワーク。
巨大にして深遠ではあるが、生活の中で末永く親しみつづけたい等身大のアルテだ。
なので、上達だけを目標に、慎重に失敗を回避しながら、生まじめに張り詰めているばかりでは、やがてはポキリと折れてしまう可能性が高い。
車のハンドルみたいなフワッとした遊びがないと、永い道中、苦しいながらも楽しい旅を続けることはむずかしそうだ。
ならばこの世に、ちょいとユル目な爆笑フラメンコ本の一冊ぐらいは存在してもバチは当たらねえんじゃねーの。と、そんな想いが、冒頭のバカ殿ご乱心発言につながってゆくのであった。
フラメンコにおける人さまの失敗を、自分の失敗に重ね合わせてゲラゲラ笑うことで、自分の抱える不安や辛さやトラウマさえをも、ド~ンと吹っ飛ばしてしまうカタルシスを持った爆笑本。
フラメンコがあなたの生涯を通しての伴走者であることを、笑いとともに想起させてくれるよーな。肩は凝らないけど、ハラの底からじんわり元気がこみあげてくるよーな。
そんなアフィシオナード必携のフラメンコお笑いバイブルを、私の頼れるweb仲間たち(←パセオ社長室特殊工作部隊)とともに創り上げてみたい。
ま、要はそんなよーな野望なのである。
――――――――――――――――――――――――
さて、余計な悩みを抱えない動物やコンピューターとは異なり、好んで余計な悩みを抱え込む人間の生には、その痛みを和らげる何かが必要だ。
人間だけに与えられる神秘の特効薬。
それが“笑い”とゆーわけだ。
他人さまの失敗を笑うことは無条件に楽しいし、一歩進んで自分の失敗を笑うことはそれ以上の収穫をもたらすことも多い。
自分自身を笑う行為は、己の魂の救済のみならず、時にそのポテンシャルの炸裂を準備することもあるからだ。
他人に向ければ醜悪な毒針と化すあの“嘲笑”でさえ、勇気をもって自分に向ければ飛躍へのエネルギーと転じることも可能だ。
さらに、「失敗の第一人者」と絶賛されるドクトル小山(←私)の計算によれば、失敗を千回やらかすと、千回分のお笑いネタに加えて、もれなく三回分の成功が付いてくる、という結果が保証されているのだそうーである。
ただし、失敗や笑いには最初から豊かさ(ペーソスやら安らぎやら発展性やら)が宿っているので、むしろ成功なんぞはおまけにすぎないのである、ってほんとかよ。…で、おゐおゐ、出掛けちゃうのかよ。
ま、そうしたベタでヨレヨレな自己弁護はさておき、笑えるチョー迷作・駄作が300作くらい集まったところで、これを単行本として出版するために、あの有名な好男社やら慎重社やら文鯨春秋社やらに売り込みをかけたい。
まあ最悪の場合、欠陥ぱせお社でもよしとしよーか。社長がハンサムだからな。
いい作品がコンスタントに集まり始めたら、とりあえずパセオで連載するのもいーな。
で、あれだな、お笑い好きのアルティスタに登場してもらうのもありだな。
でもって、イラストは
ヨランダ
に頼もうぜ。単行本にする時には表紙まわりもな。あいつもボランティア続きだから、これはちゃんとギャラ払ってな。
ただし採用者(300名)のギャラは名誉だけっ!、ではあまりに申し訳ねーなので、現物本1冊とそれ用のオリジナル手ぬぐい一本進呈ね。
これなら定価を千円以内に押さえても、6千部も売れれば採算はとれるだろう、たぶんな。
で、もしもうんと儲かったら協力者集めて盛大に呑み会だあ、という魂胆は不滅である。
なお、皆さま方も筆者も、この時点では「取らぬ狸の皮算用」という有名な法則を、共に認識していないことを前提に筆を進めさせていただくので、どーかご了解いただきたい。
――――――――――――――――――――――――
[07年四月に完成した
幻のしゃちょ手ぬぐい
/
ヨランダ画伯作
]
さて、その肝心な作品の集まり具合である。
私より威張っているパセオの社員たちを説得するためには、まずは作品の安定供給が必要となる。
で、現在のところ、私をうならせた入賞作はこの三作だ(↓)。
パセオ社長室/フラメンコ七転八倒
(↑)ぷっ。な、凄えだろ。
もちろん、文句なしの手ぬぐいゲットだったことは云うまでもない。
これら名作を産み落とした美貌の凄腕作者は、
kiyo
に
AOI
に
深山苧環
の三名(←推定平均年齢は永遠の17歳)だ。
そんなこんなの現状は、目標のトータル300作品まで、残りわずか297作品となっている。
また、ありがてーことに、このトピックスへの投稿数もそこそこ多い。
さらにネタ自体は素晴らしいものがほとんどで、それらは云ってみれば金の卵状態だ。
だが惜しいかな、ネタは良くても作品としてのまとまり方がイマイチなので(←私の要望の伝え方がヘボだったので)、笑えるところまでは行けてねーのだ。
おそらく作者自身も笑えていないと思われる。
だが例えば、(4)RIE、(6)か るめん、(10)ひぃ、(14)et、(20)小さなMiki、(37)ビューティ、(45)あきら、(46)オラシオン、(47)みるく、(50)chaka、(52)けいこ、(54)きんた33、等々のネタなどは、磨き直せば大ウケ~採用まちがいなしの素材なのである。
さあ、どーする?
素材再生の道はあんのか?
あるんだな、これがっ!
んじゃまず、試しにそのイマイチの理由を分析してみるからな。
あっ、ただし、私が書きたいのは一般的に通用する技術論ではなく、あくまで「フラメンコ七転八倒の出版だけに通用する特殊ヘンタイ技術」なので、くれぐれも気を悪くすんなよな。
では早速そーした前提で、きびしく突っ込んでみよーか。
(
1
)無駄な説明が多すぎる。
(
2
)読み手を配慮してない。
(特に自分という読み手に対して)
(
3
)踏み込みが甘い。
「フラメンコ七転八倒」的には、おそらくこの三点が改善のポイントとなるだろう。
(………うっ。なぜ、そこで一斉に私を見るのだ? 有能なコーチが必ずしも有能なプレイヤーではないことを諸君らは知らんのかっ!
)
………ウォッホン。
では、どーすれば採用したくなるような(みんなが読みたくなるような)作品になるのか?
プリントアウトして神棚に飾りたいポイントは、以下の四点である。
(
1
)徹底的に不要な説明部分をそぎ落として、可能な限りシンプルにまとめる。たとえば、最初30行で書いたものなら10行ぐらいにシェイプアップする。1行になっちゃってもかまわない。この私でさえ、当初100行あった自信満々の文章が、無駄な部分を削ぎまくった結果、0行になっちまうことも稀にあるのだ。まあ、多くても10回のうち8回ぐらいのもんだが。
(
2
)書き終えたら、何度も何度も、何日もかけて推敲する。時には音読して文章リズムの快感性を確かめてみるといい。客観的な自分がそれを読んでぷっと吹き出すまで、その作業を延々と繰り返す。かけた労力と時間は、まんま実力(←なんの?)として身につくので安心して没頭していい。それを一年続けりゃ、速度も3~10倍になるしな。
(
3
)上記の基礎コンパスの厳守を大前提に、自分らしいアイレを思い切りぶちまけてみる。ぶちまけるのはヴィジョンでもかまわない。自分と完全に同化できるフィクションなら、それもオッケー。そこら辺はフラメンコと同じ。
(
4
)書き込むのは「タイトル」と「本文」だけ。「ブレリアをひと振り舞ってスッと退場」する潔さをイメージして、前後に余計な説明コメントは一切入れない。本線以外のコメントを入れたい場合は、別に改めてコメントを立てるといい。タイトルは重要なので、納得ゆくまでじっくり自分で考えよう。
以上、エラそーなわりに教養の感じられないポイント解説はここまで。
お笑いと云えども、そのタイトルは名にし負う「
フラメンコ七転八倒
」。
その製造過程は、やはりフラメンコなやり方に準ずるのがよろしかろーとも思う。
ギター、カンテ、バイレの上達にも直結するから無駄もねーしさ。
フラメンコ休眠中のお方にもバッチリもんのチャレンジだ。
あ、もちろん同じネタによる再チャレンジは何回でもオッケーだ。
――――――――――――――――――――――――
………と、
ここまで読んでこられた方は、すでに貴方ひとりである。
あるいは私ひとりかもしれない。
立派な誇大妄想には哀愁がつきものである。
想い出されるのは、パセオ創刊決意の頃。
聞こえてくるのは、夕焼け小焼けである。
きょろきょろ周りを見てもムダである。
みんなもう帰っちゃったよ。(TT)
カア、カアー。
(←効果音、無常に響く……)
……ん。
読者からの伝言かい。
うれしーね、
どれどれ。
「長文おつかれさまです。
でも、この程度の内容なら、
三行もあれば十分ではないでせうか」
※いねーとは思うけど、本日の社長室をお読みになって、投稿されたいと思った方は、
こちら
のコメント欄までどーぞ!
7/20金(その241)
赤頭巾ちゃん
フライング情報もひと段落し、「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」にトンズラするのはいつものコースだ。
で、本日のお題は『
赤頭巾ちゃん
』。
私の中では、いっつもフラメンコとかぶってしまう、不思議で巨大な無頼派作家。
7/09月(その230)
パセオの庭
えー、
パセオの庭
が無料で開放されてることをご存知ですたか?
7/06金(その229)
まったくの偶然
今日は“偶然性”というものについて、実話をもとに考えてみたい。
参考テキストは「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」より『
まったくの偶然
』である。
7/02月(その228)
シュタットフェルト再び
さっ爽と駆けぬける剛健なドイツ製ベンツ。
伝統に支えられるその安定した走りは、むしろ普遍的な輝きを帯びる。
時に道は曲がりくねり、細くでこぼこだったりするが、車はあくまでも滑らかに、実に心地よい走りをキープする。ゆっくり走ろうと200キロで走ろうと、そのリズムが滞ることはない。
ガードレールのない崖っぷちを突っ走る時も、わずかな隙間で対抗車とすれ違う時も、その間合いは完璧に見切られており、危さは微塵も感じさせない。
ちょっと熱いかなと感じるや否やそのドライバーは窓を開けて後部座席に陣取る私にさわやかな風を贈り、ああ喉が渇いたなと感じればよい具合に冷えたクラウスターラーを私に手渡す。
そしてその車窓には、研ぎ澄まされた美しい情景が広がり続けるのだ。
何てファンタスティックなドライビングテクニック!!!
そのドライバー、いやピアニストの名をシュタットフェルトと云う。
――――――――――――――――――――――――
「
スペイン人なのにフラメンコがうまいっ!
」
ヒターノ特有のプーロはまた別物としても、フラメンコの国際的な普及発展のスピードに比例して、遅くも今世紀中にはこんな現象が発生することになるだろう。
「
ドイツ人なのにバッハがうまいっ!
」という、まるで「
日本人なのに横綱だあ!
」みてーなシュタットフェルトに、この私がことさら注目するのはこうした妄想が伏線となっている。職業病とも云うべきヤジ馬根性なのである。
妥協なき審査で知られる(十年以上も優勝者を出さなかった)バッハ国際コンクールで、当時21歳のドイツ人ピアニスト、マルティン・シュタットフェルトが優勝したのは今から五年前のことだ。
昨年初来日した彼のゴルトベルクのライブについては、
面白くもなんともないレポート
を長々とブログに書き、読者諸氏の睡眠不足を一挙に解消したことは記憶に新しい。
すでに彼はバッハ中心に五枚のCDを全世界リリースしており、中でもバッハのキーボード協奏曲の録音は出色である。
[シュタットフェルト/プレイズ・バッハ]2004年SONY
他国のアーティストに追い抜かれっ放しだったバッハ演奏について、「やっぱ本場の演奏は格別だよな」という国際的評判を取り戻しつつあるこの本国ドイツ人ピアニストは、一体どのようなアプローチでそれを可能にしたのだろうか?
シュタットフェルトに再び臨む、今回の私の関心事はそこにあった。
――――――――――――――――――――――――
当レポート冒頭の寝言は、先々週の金曜に開催されたシュタットフェルトの協奏曲ライブ(↓)についての率直な印象である。
――――――――――――――――――――――
『
ザ・シュタットフェルト・ヴァリエーションズ
』
2007年6月22日/すみだトリフォニーホール
ピアノ独奏:マルティン・シュタットフェルト
指揮:ヴェルナー・アンドレア・アルベルト指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
[曲目]
◆バッハ『ピアノ協奏曲第一番ニ短調』
◆ベートーベン『ピアノ協奏曲第五番/皇帝』
――――――――――――――――――――――
「バッハ+チョー有名曲」という、ミーハーな私には何ともありがたいプログラミング。さすがは“すみだ方式”である。
で、当日の客席に大ウケしたのはプログラム後半「皇帝」の方だったわけだが、実際それは見事な快演だった。
「ピアノ協奏曲の皇帝」と呼ばれるにふさわしい、ベートーベンの壮大にして華麗なこの超難曲を、彼はまるで軽いエクササイズでもこなすかのようにプレイしたのである。
もちろんそれは技術面の話で、そこで余したエネルギーと集中力の全てを音楽そのものの豊かさに奉仕させるという、そうした至芸を強く印象づける名演だったと思う。
実演・録音ともに巨匠クラスの大名演が氾濫する「皇帝」だが、シュタットフェルトのそれは「ベートーベンの普遍性を謳う清冽な皇帝」という位置づけになるだろうか。
[シュタットフェルト/バッハ:ピアノ協奏曲]2006年SONY
さて、私のお目当てだった前半のバッハである。
この協奏曲は、高校生の私がはじめての肉体労働によってゲットしたLPレコードに収録されていた、云わば我が青春のバッハなのだ。
以来36年、大げさに云えば千回ほどは聴き込んだ懐メロなんである。
おまけに、シュタットフェルトの協奏曲CDにも収録されているため、ライブの十日前から楽譜片手に予習聴きするという念の入れようである。
チェンバロのために(原曲はヴァイオリンだったかも)書かれたこの協奏曲は、現代ピアノで演奏するには音量・音色等の物理的な(弦楽オケとのバランスやらかみ合いやらの)問題が大きすぎて、特にライブではあまり演奏されることはない。
現代の高度なミキシング技術をもってしても、ピアノによる録音で音楽的成功を収めた例(カツァリス盤、ペライア盤やこのシュタットフェルト盤など)は10種類を超えていない。
耳ダコで聴いたCDから予測出来たように、シュタットフェルトの実演は、これまで聴いたこの曲のライブの中でも傑出した名演だった。
完璧なテクニック、ベートーベンよりも数段骨が折れそうな一音一音を独立させるための粒立ちのよいタッチ、全体の構築性とここぞという場面の歌心、各声部の独立性とその相互協力性などなど、ライブでここまでやるかいっ!と仰天するほどに充実した内容だったのである。
だが、これもまた過去の経験値から予測出来たように、現実空間におけるピアノと弦楽のバランス・コントロールは困難を極めており、その音色・音量・余韻のかみ合いについては、やはり若干の問題を残したのだった。
ベートーベンでは理想的に響いたトリフォニーの極上な音響環境が、逆にバッハでは裏目に出た(響き過ぎてかえって濁る)とも云えるし、コンチェルト感を強調するためにあえて厚く布陣したと思われる弦楽奏者の数は、むしろ半数以下に押さえて各声部の透明度を重視した編成で聴いてみたかったような気もする。
てな贅沢すぎるゴタクは無視し、滅多に聴けないこの大好物コンチェルトのライブを最高のキャストで聴けたチョー大吉を純粋に慶ぶこととしよう。
――――――――――――――――――――――――
と、ここまで書いて読み返しているうちに、そのあまりのくだらなさから案の定いつの間にやら爆睡しとった。私の文章の安眠性には定評があるのだ。
さ、日も暮れてきたので、そろそろ本題に戻ろうか。
バッハ演奏とくれば本場のドイツ人に限る、と当然そう思う。
フラメンコと云えば本場のスペイン人、というのと同じ理屈だ。
ところが現状では、オランダ、ベルギー、日本あたりが現代のバッハ演奏の主流なのである。
ただ、別にドイツ人がバッハを下手になったわけではない。
ドイツに生まれてたかだか322年とは云え、もはや地球財産としてそびえ立つバッハという芸術ジャンルについて、情報化時代の加速を受けた他国のミュージシャンたちがあまりにも上手くなりすぎちまったという話なのだ。
地球上で最も人気のあるバッハ弾き、かのグレン・グールドもまたカナダ人なのである。
[グレン・グールド/バッハ:ゴルトベルク変奏曲]1981年SONY
そんな状況の中を彗星のごとく現われ、「やっぱドイツ人のバッハは凄え」という評判を盛り返しつつあるシュタットフェルト。
このピアニストは果たして、どんなアプローチをもって国際バッハシーンに躍り出たのだろうか?
[シュタットフェルト/バッハ:ゴルトベルク変奏曲]2004年SONY
はじめて彼のCDを聴いた時、昨年そのゴルトベルクの実演を確認した時、五枚のCDを改めてつぶさに聴き直した時、そして今回のこの協奏曲ライブ。
それらに共通する私の感想を要約すると、次の五点が浮上してくるのだが、強く感じた順にそれらを挙げてみよう。
(
1
)一聴ドイツ風ではない、クリスタルな躍動感。
(
2
)それが超絶技巧であることをほとんど聴き手に悟らせない位にナチュラルな、音楽そのものを語るためのテクニック。
(
3
)目先の誘惑には溺れない、インテンポ(一定の速度)のキープによる堂々たる構築性。自然な呼吸感のある鉄のコンパス。
(
4
)「私らしさ」を歌うのでなく、その「作品本来の魂」を歌いあげようとするアプローチ。作品の本質と一体化しながら普遍的表現をめざす姿勢。
(
5
)おおむね早めの速度をとりながら、全体的に透明かつ硬質な音色で弾き通すスタイリッシュな現代感覚。
(※余談だが、特にバッハにおいて、シュタットフェルトは要所要所で低音部をガツンとド派手に強調することがあるのだが、彼の志向性からすると、それは唯一例外的な違和感を感じさせる部分となっている。
だが同時にそれは「何てステキな!」とケレン好きな私をハッとさせる瞬間だったりもする。
それが音楽的な要求上必然的な技なのか、それとも若いシュタットフェルトの遊び心の成せる業なのか?
いずれにしても、この些細な細部には、実は彼の魅力に直結する何かがあるのではないかと私は直観しているって、単なる勘ちがいだろがあ)
この他にも特色はたくさんあるのだが、これを読む人類は私を含めせいぜい二、三名であるので今回は割愛させていただく。
で、さらに番組は続く。
(
1
)は彼の好み、個性、あるいはヴィジョンと云うべきものだろう。
(
2
)(
3
)(
4
)は西欧の本格派・正統派ミュージシャンに顕著に見られる特徴である。
(
5
)は近年のユニバーサルな傾向の中のひとつの方向性だ。
う~ん。
してみるとシュタットフェルトというのは、(
2
)(
3
)(
4
)に流れる血筋と伝統をきっちり継承した上で、(
5
)のユニバーサルな現代感覚を取り入れつつ、己の個性(
1
)を磨き上げたピアニスト、ということになるのか?
……うわっ、こりゃまるで若き日のパコ・デ・ルシアやアントニオ・ガデスにも共通するアプローチではねーか!
[パコ・デ・ルシア/魂]1972年POLYGRAM
これら要素を融合させるアウフヘーベン(本音でケンカさせることで一段高い結論を導き出す方法)を成功させた結果が、数々の国際コンクール優勝であり、5タイトルのCDの全世界リリースであり、「やっぱドイツ人はバッハうめえ」という評判の復活であったというわけだ。
どーよ、プロの評論家にぶっ飛ばされそーな分析・暴言ではないか。
いーか、皆さま方よ(←約三名。犬は含まない)、他言は無用である。
と、ここまで書いてふと私は、国際的ブレイクは時間の問題とささやかれる、若手ヒターノ“スーパー・バイレ”ホセ・マジャのインタビュー(パセオ7月号)を思い出した。
誇り高き名門ヒターノが、嬉々として「二年間徹底的にクラシックバレエを学んだ」というあの話である。
[ホセ・マジャ/パセオフラメンコ2007年7月号巻頭インタビューより]
豊かな血統的財産に甘んじることなく、他文化を吸収し血肉化しようとする貪欲かつ謙虚な姿勢。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、って逆じゃんかよ。
まだ見ぬホセ・マジャと、その三歳だけ年上のドイツ人シュタットフェルトが、ほんの一瞬、私にはダブって見えたのだった。
はじけろ俺のポテンシャルと念じながら、ホセ・マジャが「クラシックバレエ」に着目したように、きっと修行時代のシュタットフェルトもまた他の何かに着目していたはずである。
それは一体何だったんだろう?
そして、みずみずしい魅力に充ちたあの「クリスタルな躍動感」の元素となったものは一体何だったのだろう?
もし私が彼のインタビュアーだったら、その部分の突っ込みだけは絶対に外せないところだって、おめーの結論は保留かいっ。
[私の名解説にがっくり肩を落とすマルティン・シュタットフェルト、なわけねーだろ]
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つーことで、今回もまた長いレポートになっちまったな。
しかも、書いてる本人さえをも居眠りさせちまう驚きの文章力である。
ラストのあと書きだけしか読んでねえくせに、「あー、あの本読んだわ」とふんぞり返るタイプのあなたよ。
今日もまた、最初の一行とおしまいのこの部分しか読んじゃいねえことは、すでにチャンチャラお見とーしである。
ま、タイトルだけ見てクリックもしねえ方々(全体の99.8%)に比べれば遥かに誠実ではあろう。
だがしかし、もう一度だけきっぱり云っておこうか。
そんなことでは、ぜんぜん睡眠時間が足らんと思うぞっ!!!(TT)
7/01日(その227)
シュタットフェルト
「
スペイン人なのにフラメンコがうまいっ!
」
ヒターノ特有のプーロはまた別物としても、フラメンコの国際的な普及発展のスピードに比例して、今世紀中にはおそらくこんな現象が発生することになるだろう。
そんなこんなで今日の「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」は、「
ドイツ人なのにバッハがうまいっ!
」という、まるで「
日本人なのに横綱だあ!
」みたいなピアニスト(
シュタットフェルト
)のリサイタル実況中継(2006年3月)である。
6/28木(その226)
無敵の番長
先週アップしたパセオHPの「
社長のとりあえずこれ聴いてみ?
」。
登場するのは、カマロンの後継者のひとりとして、みなさまにはもうお馴染みかもしれない大物カンタオール、
エル・シガーラ
。
そのルックスやら雰囲気やらが幼い私のあこがれの大先輩そっくりだったことから生じた喧嘩沙汰のてん末を描く、トホホな哀愁ストーリー。
6/26火(その225)
続カマロン
本日の「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」。
きのうにひき続き、天才
カマロン・デ・ラ・イスラ
の登場である。
自分で思っているほど優秀ではないこの私が犯した単なる
勘違いの話
だが、人間誰しも間違いはある。この私とて例外ではないのだ。
その代わりと云ってはなんだが、スペイン語の学習にはもってこいの好編なんです、と云えるかどーかはビミューというより無謀であります。
6/25月(その224)
カマロン
カマロン・デ・ラ・イスラ
20世紀後半、フラメンコのポテンシャルを爆発させたカリスマ天才シンガーである。
本日の「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」は、そのカマロンが主役だ。
全四回の連続ものだが、うれしいことに文章がまるでスカスカなので、五分もあれば読破できる。(TT)
『カマロン慕情』
その①
/
その②
/
その③
/
その④
さて、カンテについて不勉強なあなたよ。
この大作を読めば、天才カマロンのその魅力のすべてについて、ほとんどわからないまま終わるだろうが、私という人間はよくわかるかもしれない。
6/21木(その223)
手ぬぐいゲット必勝法
いつもとは逆に、今日はmixiに書いてる日記をこちらに流用する。
手ぬぐいゲットご希望の方は、コメントを
こちら
へどーぞ。
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ひょんなことから、
ヨランダ
との協同制作で実物化した「幻のしゃちょ手ぬぐい」。
この宇宙にわずか300本しか存在しない、ヨランダ画伯直筆シリアルナンバー入りの希少品である。
自ら主催するイベントの参加賞として配った手ぬぐいの残り本数を、先日ヨランダが皆さまのために寄贈(時価8億円相当)してくれたので、そのチョー高級日用雑貨品(←なんと手ぬぐいとしても使用できる)は、私のデスクの足元にまだ140本ほど現存しているのであった。
主に当欄や社長コミュなどにおいて、ぷっ、こりゃ面白えーよと、私の独断偏見によって選出されるコメント主の方々に手ぬぐいを進呈するという、この古来から伝わる(←今年四月から)格調高い風習によって、これまでに獲得された方々の総数は、この地球上に約60名といったところである。この数字たるや、実にノーベル賞受賞者よりもはるかに希少な数字であるのだ。
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さて、手ぬぐいの贈呈基準には、その日の天気や私の気分で決まるという実に厳粛な審査方法が採用されているのだが、このたび私は、その“私の気分”といったものの中身を、自ら客観的に分析整理してみることを思い立ったのだった。
「よっ、手ぬぐい一本っ!」と私に叫ばれるコメントは、たまたまお笑い系パープリン系である場合が多いが、歯が抜けるよーな私に対する賛美や臨機応変なウンチク、あるいはその場の空気を読みきった高感度コメントだったり、その様相は実に様々である。
一発ギャグで獲得される場合もあるが、地道な好感度コメントの積み重ねで獲得される場合もある。
一見そこにはデジタルなシステムは作動していないかのように見える。
だがしかし、私の中では確固たる基準はあるのだ(←ほんとかよっ)、と云ったら明らかに過言であり、ハタから見るとサッパリわからんとゆーのが実情であろう。
そこで、そこら辺のブラックボックスに鋭くメスを入れ、その選考基準を明らかにしようとするのが、本日の「手ぬぐいゲット必勝法」のメインテーマなのであります。
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さて、思わず手ぬぐいを放出したくなる私好みのコメントとは、いってえどんなもんなのか?
それではいよいよ、「手ぬぐいの贈呈基準」についての統合整理の結果を発表いたしましょう。
では皆さま方よ、用意はえーですか。
すでに居眠りこいてる、そこのあなた。
白目半開きにしてヨダレ垂らしてる場合じゃねーでがす。
んじゃ、行きますよ、えーですか、その分析結果というのはですね。
その結果というのはね。(ぷっ)
その、どーでもいいぐらいに重大な結果というのはな。
それがどーしたとド突かれそーな結果というのわなあ。(TT)
そのアホらしい結論とゆーのわなあああ!!!
それは「
フラメンコなアイレ
」みてーなコメントなのでありますた。
云い換えればそれは「
日常を豊かにする、なんでもアリの何か
」とゆーことにもなりましょうーか。
コメントを目にする、そのほんの一瞬でもいい。
異なる個性とのふれあいから生じる、広がりのある実り。
おお、人生捨てたもんじゃねーよ、と肯けるシンプルな快感。
おバカで狭い私の視野が、パッと開けるよーな感触のコメント。
そんなフラメンコ的コメントが私好みなんであります。
独断偏見による手ぬぐい一本なんであります。
お笑いやペーソス、下ネタ各種、喜怒哀楽の感情、自慢話やら自虐ネタ、グチにお世辞に真摯な主張などなど、コメントを形成する素材(曲種?)自体は実に何でもアリなんであります。
要は、
コメントの内側から匂い立つアイレ
そのものなんであります。
出来不出来に関係なく、そうしたアイレを宿したおざなりではないコメントが私は好きです。……とまあ、こう書くことで私自身にもカツを入れようとしてるわけでもありますが。
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ギターやカンテのアイレの投げかけがより素敵なバイレを引き出すような、あるいは、バイレのひらめきがより素敵なギター・カンテを引き寄せるような関係とゆーか。
二度とは訪れない唯一無二の時空間にあって、
その場に流れる空気を感じながら己を表現する
ことは、フラメンコ同様に大切なことであるような気はします。持たれ合いではなく、持ちつ持たれつで高め合う関係は、われらフラメンコ派が共有できるヴィジョンかもしれません。
いい感じの流れをさらにふくらませるようなコメントはもとより、滞った空気を一新するような勇気ある鋭い切り口なんかがとても好きですね。
アイレのキャッチボールが互いの潜在能力を引き出し合うみたいな関係ってのがイチバン面白えと、私なんかはそう感じるわけです。
時には私も面白えコメントを書くことがありますが、よくよく読んでみるとそれは相手のトスが絶妙である場合に限られているんだな、これが。
現在までの私のコメント成功率が異常に高いのも(←成功率1.3%=TT)皆さま方のまぐれとも云うべきナイス・トスのおかげなわけです。
つーことで、これにて皆さまは勝ったも同然であります。
手ぬぐいゲットは時間の問題なんであります。
いわゆる社会性とはまた異なるところに在る、もっともっと遠大な生き物同士の普遍性。
それをコンパクトに切りとり自由に表現する、あなただけの独自性。
とどのつまりは、独創性で切り込む普遍性つーことかもしれません。
そうした手間や努力を無益なのものと切り捨てるのかどーか?
失敗を恐れず、そこへズバッと踏み込もうとするのかどーか?
………そう、フラメンコとまったくおんなじなんでありますって、どこまで行くんだ正気かよ。
さて、たかだか手ぬぐい一本で、ここまで大きく出れる私の感性は、あるいは皆さま方の研ぎ澄まされたアイレを呼び込むよいお手本になるかもしれませんね、よかったですねって、おゐおゐ、もう誰も読んじゃいねーよ。(TT)
6/20水(その222)
故郷
パセオフラメンコ最新号のちょい見せもひと段落したところで、「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」へとトンズラしたい。
昨年夏に書いた『
故郷
』というタイトルの抒情的記述である。
起伏のない平凡な描写の中に突然現れるどうでもいい真実。
久しぶりに故郷を訪れた主人公(←私)を襲うチョーゆるめの衝撃とは?
6/6水(その213)
しょうぶの行方
「勝負は時の運」と云うが (
つづく
)
6/5火(その212)
大河ロマン
昔むかしあるところに(
つづく
)
6/2土(その211)
ナンパ日和
お陽さまもひょっこり顔を出し、今朝も早よから元気にナンパだ。
ご近所代々木公園のドッグランにてみっちり90分、次から次へと女子を口説きまわる
ジェー
(写真右)。
4歳になるオスの土佐犬だが、一見ヨーキーのようにかわいい風貌は飼い主譲りと云えるだろう。
5/31木(その210)
紗矢香のメンチャイ
云うまでもなく、ここ社長室の熱心な読者諸氏は、全員が美女美男である。
さらに全員が働き者であるために、全体的に睡眠不足気味なのが少々心配だ。
そこで、心優しい私が皆さまに本日お贈りするのが「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」より『
紗矢香のメンチャイ
』である。
これを三行読むだけで、あらフシギ、三秒で爆睡できるというスグレモノの睡眠誘導文なのだ。素直な心でパジャマに着替え、ベッドの上でお読みいただきたいものである。
なお、副作用はない。むしろ
福
作用と云ってほしーくらいだ。
最後まで読破した人間は、人類では今のところ私のみであるため、客観的な評価は確立されていない長編論文だが、その浅くて薄い味わいはなかなかに新鮮である。
5/30水(その209)
成分解析
決算やら予算やら、エイギョーやら種まきやらで、まったく、とんでもねー忙しさに目がまわりそーである。
そんなわけで今日は久しぶりに、一部ヘキ地で人気バクハツの「フラメンコ超緩色系/チョー駄作選」をお届けしたい。
お題は『
成分解析
』。
私には珍しい“科学的”なお話である。
実際のところもの凄くタメになるぞっ、てゆーかダメになるぞお。
5/27日(その208)
オチはねーのか
彼のゆくところには必ずや新しいシーンが展開し、次の時代を予言する“熱風”が吹く。(
つづく
)