1984年創刊、日本で唯一のフラメンコ専門誌「月刊パセオフラメンコ」を中心に、フラメンコ情報をお届けするホームページ。公演情報から教室案内までもりだくさん。ソフト、舞踊用品などもご購入いただけます。
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パセオ今昔物語
昔のパセオで温故知新(古いもの順)
7/20木(その1)
極秘事項
ようこそ、パセオの社長室へ!
「パセオホームページ唯一の汚点」。
多くの関係者に、こう高らかに予言された社長ブログの初日である。
私が本来の実力を発揮すると、間違いなくその予言が的中してしまうので、今日は文字数を極力少なくして、かつ他からの引用文等に大活躍してもらう必要がある。
で、髪の毛が若干チャパツに変色してしまうほど真剣に考え抜いた末に、記念すべきこの第一回では、これまで社外に公表することのなかった極秘事項について、オーナー社長の権限をもって暴露したろうかい、という恐るべき結論を得たのだった。
さて、そこで唐突にご紹介するのは、22年前のパセオ創刊号に頂戴した、濱田滋郎師による巻頭特別寄稿である。 「えっ?」と思われつつも、とりあえずご一読いただけると、あなたはパセオフラメンコの閉ざされた未知の領域にたどり着くことができるのである。
[パセオ創刊号/1984年9月号]
〈パセオ〉発刊に寄せて
濱田 滋郎
フラメンコの世界に定期的な情報誌が登場する。
心から歓迎したいことである。
さしあたりフラメンコに関する催しのすべてを洩れなく、それもなるべく全国的な規模で紹介してゆくことを主眼にするという。
フラメンコの世界はこれまで横のつながりが薄く、したがってせっかく踊りやギターの催しが行なわれても一部にしか伝わらないという状況が、たしかにあった。
当誌の発刊と普及によりそれが是正されてゆき、フラメンコ界全体の活気が増すことに結びつくなら、何よりである。
当誌のためなんらかのお手伝いをするという話が出たとき、私が真先に念を押したのは
不偏不党
の立場に立っての編集という前提であった。
この種の情報誌がもしもある人びと、もしくは一派に片寄ったものとなったら、その価値は薄いし、行く先はもう目に見えている。
もし万が一、そのような傾向が現われてきたら、その時点で私はいっさい手を引かせて頂く。
ただし、初めて発足するこの〈パセオ〉であり、避けがたい調査不足、情報洩れから、こと当初のうちは、一部から不公平と見られるような事態が生じないとも限るまい。
そのような場合には遠慮なくご叱正を頂くと同時に、基本姿勢としてあくまで不偏不党をめざす編集部の意向と努力をお汲みくださるよう、読者のご寛容を私からもお願いしたい。
ともかく、読者からのご協力があって、初めて成り立つ〈パセオ〉なのである。
一方、〈パセオ〉がだんだんとフラメンコにたずさわる人びとの、談論風発する散歩道のベンチになってほしいとも私は願う。
「フラメンコにたずさわる人々」と、ひとくちにいってもいろいろある。アーティストとファン、踊る人とギターを弾く人、モダン派/フュージョン派と伝統派/純粋主義者……みな、ぞれぞれの立場がある。
もちろん互いに相容れない場合が出てきて当然だが、暗黙のうちに反目をつづけるばかりという状況からは、けっして何も生まれてこない。
立場はどうあれ、それぞれの分野においてフラメンコというものに打ち込み生命の炎を燃やしている人びとである以上、仲間同士のあたたかさを忘れない意見や論議の交換は必ず役に立つはずである。
私たちはお互いに、なんらかの縁があってフラメンコという異国の芸術ないしは芸能に魅惑されたのだ。
この〈パセオ〉、
各個の自由を重んじた“ゆるやかで、しかもしっかりとした連合”
という理想的な姿を私たちが得るための、力強い足場を夢みてはいけないだろうか。
政治の世界とは違って芸術の世界ならきっとそれができる……そのような理想を掲げて誠実に努力する〈パセオ〉であるならば、私は喜んで稿料なしの原稿を書く。
そう、 「社の内外の仲間たち、そしてフラメンコファン」というチョー特別な有機財産を除けば、この一文こそが
“パセオの最高資産”
なのであった。
数え切れない廃刊の危機をどうやらしのぎ続けたことの、その原動力となったヴィジョンである。
宗教を持たない私にとっての、あたかも聖書や仏典のような効果をもたらす“エネルギーの源泉”、あるいは“本能”と云ってもいいかもしれない。
実際には無一文で始めたパセオだが、仮に数億という金を持って始めたとしても、才覚もなくあっという間にすり減らしてしまうタイプなのがこの私という人間(江戸っ子)であり、パセオの守護神がこの種のすり減らない資産であったことに、今も私は胸を撫でおろす。
さて、コトはそこにとどまらない。
この寄稿に籠められた師の理念は、やがて
日本フラメンコ協会
の創設へとつながってゆくのである。
いまやフラメンコ界最大の人気イベントに成長した夏の新人公演も、まさしくこのヴィジョンの延長線上に結実している。
一大エポックとなったこの春の
協会15周年記念公演
も、「各個の自由を重んじた“ゆるやかで、しかもしっかりした連合”」という師の夢がもたらす必然的成果のひとつだった。
そんなわけで、師のヴィジョンを “パセオの社有資産”というのはとんだ我田引水のようでもある。
この場を借りて、“フラメンコ界全体の永久資産”と正しく云い換えておく方が安全かもしれない。
やっとのことで実りの時期を迎えたフラメンコ界だが、どんな世界にも“春夏秋冬”のサイクルは必ず訪れるものだから。
(つづく、かも)
7/26水(その6)
ボロは着てても
この号がお届け出来るころには、創刊号の実売が500部に到達する見込みです。
今月号より、コピー印刷から軽オフセット印刷に切り替えたことに皆様お気付きになられましたか。
さて、現状では郵便料金の関係で、心ならずも本誌を折り曲げて郵送するしかないのですが、今後の部数の伸び次第では、第三種郵便の資格取得も可能となり、そうすれば折り曲げずに郵送することも増ページも可能となるわけです。
そうすれば今度は一般書店で扱ってもらえる……いや、横で鬼が笑ってますのでこれくらいにしましょう。
[パセオ1984年10月号]
と、これはパセオ創刊第二号における私(当時29歳)の編集後記。
鬼のようなビンボー時代なのに、けっこう楽しそうじゃん。
7/31月(その9)
今も昔も
[パセオ1984年11月号]
この号のイベント情報を見ると、10月に女王マヌエラ・カラスコ、11月にはギターのビクトル・モンヘ・セラニート(パコ、サンルーカルと共にビッグスリーと呼ばれた)の来日公演がある。
邦人では、岡田昌巳、倉橋富子、田中美穂、小島章司ら豪華メンバーによるリサイタルが目白押しだ。
渋谷ジャンジャンの名物だった懐かしのペペ・イ・ペピータ“アンダルシアの閃光”もあるし、飯ヶ谷守康、鈴木英夫、三澤勝弘という当時のフラメンコギター三羽烏によるジョイント公演もある。
新宿エル・フラメンコの出演者は、何とファミリア・フェンルナンデスである。
カンテのクーロ親父、同じくカンテのエスペランサ(19歳!)、ギターのぺぺ(18歳)、バイレのホセリート(16歳)、それとコンチャ・バルガス(!)など、今じゃ集めるだけでも大変なモノ凄えメンバーだよ。
第一回東京スペイン映画祭(東急名画座/1984年11月16日~30日)では、日本でも話題になったビクトル・エリセ監督『エル・スール』など、トータル10作品が上映されている。
中でも上映回数が一番多かったのは、われらがアントニオ・ガデス+クリスティーナ・オヨス主演による『血の婚礼』(カルロス・サウラ監督)だった(来春、新生ガデス舞踊団で久々の実演が観れるぞお!)。
日本のフラメンコ人口が、現在の数パーセントに過ぎなかった22年前のお話である。
世の中にもっともっとフラメンコをアピールしなくちゃと皆でシャカリキになってた当時だが、こうして振り返ると、それなりに豊かな環境がすでに存在していたことに驚かされる。
ところで、この頃(1984年秋)のあなたはどんな風でしたか?
8/3木(その12)
女王さま
[パセオ1984年12月号/表紙はマヌエラ・カラスコ]
バイレ・フラメンコの女王マヌエラ・カラスコに、私が初インタビューを試みたのはこの号だ。
なにせスペイン本国の大スターである。
あのもの凄いバイレである。
鬼のようなアルテである。
「こ、こわいかも」
気弱な私は不安180%でテンぱる。
同世代じゃねーか、口説くぐらいのつもりでぶつかって行けやっ、などと自らを鼓舞するようにブツブツつぶやきながら、女王さまの待つ控室に向かったことを昨日のことのように思い出す。
案ずるより産むが易し。
通訳をお願いしたやたら明るいボランティア嬢が大した度胸の持ち主で、意外とリラックスした楽しいインタビューとなった。
最初はちょっとだけ気難しげだった女王さまが、三分後くらいには笑顔を見せながら大いに語ってくださったのである。
度胸と愛嬌というのは、万国共通のパスポートかもしれない。
自信にあふれる通訳N嬢のスペイン語はほとんど壊滅状態だったが、何とかそれらしい記事は採れたのである。
8/10木(その17)
自由のワナ
[パセオ1985年1月号]
1984年11月に行なわれた“スペイン映画祭”の開催に先立っての記者会見。
日本でも大ヒットした映画『カルメン』のカルロス・サウラ監督ほか全六名からなるスペインを代表する映画監督が来日したのだ。
にもかかわらず、記者の方は私を含めても大監督ご一行と同じくらいの人数しかおらんではないか。
こ、これはいかん。
あわてて私も質問を飛ばしまくることになったわけだが、監督たちを盛り上げるツッコミができなかったことが今さらながら悔やまれる。
当時から私はボケ専だったのだ。
さてその折、私のとなりの鋭そうな記者さんと、もの静かで奥行きが深そうなインテリ紳士、フアン・アントニオ・バルデム監督による以下のやりとりは二十年以上の歳月を経て、いまも私の脳裏に深く鋭く焼きついている。
バルデム監督(享年80歳で2002年他界)はフランコ独裁制の下、社会派の映画を数々発表し、ルイス・ブニュエルと共にスペイン映画界の一時代を形成した名監督である。
――――
フランコ体制の時代とそれ以降では、映画制作についてはどうような変化がありましたか?
フランコという独裁者が死んだことによって、スペイン全体に民主的自由がもたらされました。
特にわれわれ映画人にとっては、「表現の自由」というところまで具体化したわけです。
現象的には、われわれは以前は保安警察や検閲の網をくぐり抜けつつ、自分たちの主張を表現してきたわけですが、自由化以降はそうしたことをしなくとも自由に映画を作れるようになったわけです。
しかしながら、私個人としては、「フランコに敵対していた時の方がより良く生きていた」という感想を持っています。
つまり、フランコ時代には法律や圧力に抵抗しつつ、スペインの現実に対し批判の目を育てつつ、これを展開してゆくことが出来ましたが、自由になってから、われわれ映画人たちが批判の目を失いつつあるという現状があるからです。
われわれは今ここで、新しい方法を作り出さねばならない時期にきていると思います。
8/11金(その18)
必然
[パセオ1985年2月号/表紙は
マヌエル・アグヘタ
]
1984年の暮れ、世紀の大カンタオール、マヌエル・アグヘータが初来日を果たした。
正真正銘の大物歌手であり、そのルックスはまさしくアラン・ドロン893ヴァージョンだった。
その1年前1983年のカーネギーホール公演では、シギリージャとソレアだけで満員の聴衆を熱狂させたという。
たくさんの録音で後世の栄光を約束された本物中のガチンコアート。現世的には億万長者かチョー貧乏のどちらかだ。多くは後者で、この頃のマエストロもそれだった。
記事タイトルは「
突如上陸!ジプシー・ハリケーン
」。
ハリケーン日本滞在中の、その命知らずの世話人は“黒い革ジャンの猛獣つかい”こと荻内勝之さん(東京経済大学教授)だった。
二人並んで歩くと、まわりが避けるので自然と道ができた。私はそのうしろを歩いた。のちに教授は否定されたが。
まぎれもない極道コンビだった(教授は否定されたが)。
当然あっちゃこっちゃで当たり前のように事件が起きた(教授は否定できなかった)。
この号に来日記事を組むためしばしば同行する罪もない私が、スリリングな局面に出喰わすことは必然だった。
二十年を経てようやく笑えたエピソードもある。
日本人のフラメンコは?という私の愚問に巨匠マヌエルは、
「全部やめちゃた方がいいよ」
…………だって。
後にも先にもここまでパセオで公言したのは、マヌエルぐらいのものだ。
やれやれ。云う方も云う方だが、29歳オレもまんま載せるなよ。
さらに、読者に何かメッセージを、とヤケクソでお尋ねすると、
「日本にも純粋なカンテ・ホンドの根を張れたら、と思っている。
アカデミックに勉強したものは駄目なんだ。日常や、自分の内から湧き出してくるものや、自分にフラメンコをさせる動機をいつもしっかりつかんでなきゃいけない」
と、今度はかなりマジに返すマエストロだった。
そしてそれから約二十年。
こんな結果を出した日本人がいる。
関係者は一様に驚き、やがて我がことのように喜んだ。
[
瀧本正信 カンテソロ アルバム/エル・カステーロ
]
CUSTICA/2004年
マヌエル・アグヘータは都はるみを絶賛、北島三郎にうなずき、五木ひろしに首をかしげ、大川栄策に眉をしかめ、名もない舟頭の漕ぎ唄に絶句した(荻内教授談)。
彼は、フラメンコにおける日本人の資質を早くから認めていた人だ。
二十年前、あるいはこんな成果(瀧本CD)も漠然と予測していたのかもしれない。
(マエストロ初来日関連、あと二回続くかも)
8/14水(その20)
ああアグヘータや
[パセオ1985年3月号/表紙はマリオ・マジャ]
「アグヘータ、ああアグヘータやアグヘータ」
これは、この号と次の4月号に緊急連載した、荻内教授(スペイン文学)によるアグヘータ同行記のタイトルだ。
1984年暮れの日本フラメンコ界は、衝撃的とも云えるプーロ(純粋)フラメンコの洗礼を受けた。
その日本カンテ史のエポックな空気をちょこっとだけ感じてほしいので、今日と明日で、同行記全体のほんの3%位をスポット抜粋して載っけてみよう。
世紀の大カンタオール、鬼神マヌエル・アグヘータの世話人を買って出た東京経済大学教授・荻内勝之が愛憎の限りを書き尽す、滞在2ヶ月間の同棲日記。
ファンタジーと悪夢に充ちたそのワンシーン集である。
アグヘータが来る。来た。歌った。去った。東京、三島、静岡、名古屋、京都、大阪、箕面、西宮、神戸が静かになった。
国分寺のスナックB1での二次会。クーロ・フェルナンデスが床にあぐら座して歌い、コンチャ・バルガスはアグヘータの歌でセクシーに踊った。
アグヘータ語録
「肉を食わないと歌えない」
家を出る前に300グラムのステーキを食った。スペインではなすを食って歌っていたが……。
アグヘータ語録 (池袋駅前caféでエスプレッソを飲みながら街を見て)
「これなら俺の性分に合う。女を見つけて定住したい」
アグヘータは終電車でも歌いまくり、ニ車輌の客を集めて上機嫌。
新宿ナナでペペ島田の会を横取りしてアグヘータの会にする。
8時すぎから明け方3時まで続く。フラメンコ狂たちの感動がナナをゆさぶる。アグヘータめ、歌手冥利につきると思え。
そのアグヘータを友人に預けて、この日初めてひとりになり、ホテルを探すが、どこも満員。そういえば忘年会シーズンにはいっているのだ。俺の忘年会はいつ出来るか。
新宿改札口横でいわゆる浮浪者に混じって仮眠。タイルの寝床のなんと柔らかかったことか。
つきささる原色の恋。
答えのない恐ろしい問い。
着衣を裂く胸の爆発。
白壁を破り、牢の格子をへし折って鍛治の吹子とハンマーのうなりが届く。
大気に、大地に、海に、月に、鳥に、まんねんろうに訴えかける怨がアグヘータのカンテ・ホンドだ。
言霊が焼けた鉄の喉を打つ。
[フラメンコの大家たち/マヌエル・アグヘータ]
LE CHANT DU MONDE
アグヘータ語録
「俺がお前の家に住んでいるおかげで、お前は有名になれるし、フラメンコ史上に残る本が出せて大儲けできる。お前は幸せ者だ」
しかし、続く会場の準備のために深夜まで電話と依頼状の執筆で休む暇なし。
わが本職のスペイン文学、書くことと活字の世界がはるか遠くにかすんで見える。
これでいいのだろうか。現職復帰は可能か。
ここひと月まともに寝ていない。
12月31日。紅白歌合戦をテレビで見る。
アグヘータは都はるみ、北島三郎をきいて日本にカンテの素地があることを再確認する。
深夜、そろってネクタイをしめて日本酒で乾杯。この夜、静岡県三島のプラザホテルで1月13日に会を開くことを決める。(次号に続く)
(ワンシーン集、明日はその後編)
8/15火(その21)
続 ああアグヘータや
[パセオ1985年4月号/表紙はマノレーテ]
1985年当時、狭いフラメンコ界に大反響を呼んだ「アグヘータ同行記」、その後編のワンシーン集。
アグヘータ語録 (高尾山上の自然動物園で放し飼いの猿を見たあと人間の直立歩行のことが話題になる。ジプシーの背筋はなぜあのように真っ直ぐなのか)
「曲がったことが嫌いだからさ」
ベットがなくて床にじかに寝るから曲らないのである。
アグヘータ語録
「トルティージャには様々あるが、フラメンコはひとつ。どこそこの○○節というのは学者が勝手につけた名。タンゴはタンゴ、ティエントはティエント」
アグヘータはギターのアドリブが際だって良いことに不服をもらし始める。
アグヘータ語録
「俺は嫉妬でがんじがらめ」
ジプシーハリケーンも立派に人の子だ。
アーティストであり嫉妬の鬼であり、アフリカの飢える難民に涙し、ニューヨークに残した5歳の一子を思い出しては顔をほころばす情を具え、牢獄の息子を棄てたと自分に言いきかせる。
先行き暗く焦燥。見栄のためには獰猛狡猾。
時として動物園。犬、狐、狼、虎、猫、獅子が住む。
一攫千金の夢。一つひとつがおれにもある。
同じ穴の狢(むじな)。ないのは歌のみ。これが大きい。
いずれまたお前の時代が来よう。今を耐える獏(ばく)であれ。
時世は移ろうと天の下、アグヘータ、その歌に人の胸を打つ力があることに変わりはない。
裸形の風を吹き続けよ(黒い革ジャンの猛獣つかいより)。
[アグヘータ/ソレアにて]LA SOREA DISCOS/1997年
アグヘータ、もう止まらない。ギターがケースに納まっても歌はおさまるところがない。これこそ出血サービスだ。
フランシスコ・サンチェス・ブラベーラがアグヘータに贈るブレリーア。
「人々が俺に告げた。あの橋を彼女が渡っていくのを見たと。夜ふけて月光を額に浴びて」
(堀越千秋訳)
5時半。あらわれず。
東京まで乗り越したか。午前中に電話でペペと確認しあったが。
5時45分。富士おろしで足もとが凍てつく。
会場には140人が待つ。
友人、地縁、血縁の協力のほか、朝日新聞、静岡新聞、沼津朝日新聞の3紙が3段組記事。おかげで東経大以来最高の入り。
5時59分新幹線上りこだま号を祈るように待つ。階段を下りてくる乗客をまともに見れず目を伏せる。
140人を相手に何と申し開きをするか。セリフが何種類か浮かぶ。
土下座や裸踊りではすむまい。おそるおそる視線をあげる。
ギターを持つ男はいない。殺し屋風ジプシーの幻影すら見えぬ。
腹をすえた。お代は返して文化講演会だ。
ジプシーとはこうだ、ということから説いてスペイン人気質を語ろう。幸い友人の社会学者が来ているから何かにひっかけてしゃべらせよう。
問題はふたりに対して憤懣をストレートにぶつけてどんな益があるかだ。
アグ坊ちゃまがアメリカに帰るなどと言い出したら、名古屋、関西公演がどうなる。ここは笑って後日の成功にそなえよう。
6時5分こだま号。あらわれず。会場へ電話。
「6時10分前に着いた。お前は何をしているのか」。
ふたりは在来線の鈍行で着いたという。構内で待ってたためすれ違ってしまったのだ。
名古屋のFM愛知が早朝8時に電話インタビュー。生番組。
受話器に向かってアグ歌う。名古屋公演のキャンペーンだ。女性アナがスイッチONを忘れたというが……。
夕食会でアグ、外国人に愛嬌をふりまき、私も最後の力で尻振りのひと踊り。3人とも放心状態で抱きあい、駅に誰もいないホームで放歌高吟。関西巡演終了。
池袋スタジオ・カスコーロでアグヘータ日本最後の会。ペーニャ主催。
前々日に続いて一波乱。私はエンリケ坂井に救われて避難。因縁の人物は? 縁あればいずれ。
1月27日。アグヘータ、シカゴに向けて発つ。(終)
以上、
荻内勝之 『アグヘータ、ああアグヘータやアグヘータ』
より
あまりにも唐突な出来事だったので、カンテの鬼神アグヘータが単身来日したことにも、引き起こされた幾多のスリリングなシーンにもリアリティは希薄だった。
強烈すぎるリアリティは、アグヘータのカンテの内にのみ在った。
荻内先生がひとり引き受けられた悪夢の代償に、私たちはそれぞれの胸に刻み込んだ。
好き嫌いを超越するアートの真実、純度100%“黒いフラメンコの塊り”を。
9/5火(その38)
プロ
[パセオ1985年5月号/表紙はフアン・マジャ]
◆
「エンリケ・エル・コホ死去す」
フラメンコ舞踊手として日本でも高名なエンリケ・エル・コホが、85年3月28日、脳梗塞のためセビリアで死去した。73歳。
葬儀は3月31日におこなわれたが、政界財界の関係者が多数参列という盛大なものであったという。
7歳から不自由になった足でステージを踏みつづけ(彼の名の“コホ”は、スペイン語で「身体不自由」を意味する)、奇跡の踊り手として、また、民族の心の踊り手として尊敬されていた。
◆
総特集!「踊り手に聞くギタリストの不満、ギタリストに聞く踊り手の不満」
初代編集長・架光時紀(かけみつ ときのり)は信念の人だ。彼なくしてパセオはなかったというのは本当の話だ。
横のつながりはまったくなく、閉鎖的でドン詰まり状態だった当時のフラメンコの世界に、なんとか風穴をこじ開けることで「フラメンコの普及発展」のための布石筋道を作りたい。そのためには、多少乱暴な切り口もやむを得まい。
そんな彼の志のワンシーンが、パセオ初の大特集「踊り手に聞くギタリストの不満、ギタリストに聞く踊り手の不満」(それでも全4ページ)だった。
「大変なことになるね」。
「…………なるだろうね」。
今やっても無事には済まない企画だ。
案の定、凄いことになった。約二ヶ月の間、取材先営業先でこてんぱに叩かれた。
時にこうした企画も推進してゆかねば、フラメンコの世界に未来はない。
同時に、こうした企画によってパセオの死期は確実に早まるというのも現場の実感だった。
匿名OKのアンケートだったが、ご協力くださったアーティストのそのほとんどが、非難覚悟の実名で意見を述べられたことは想定外。
そこには紛れもないプロの矜持(プライド)があった。
へえ、そういうものか。
そういうものなら、どんな道であれ俺も“プロ”になりたい。あの時私はそう思った。
9/6水(その39)
正論
[パセオ1985年6月号/表紙はフアン・ラミレス]
◆前号特集「踊り手に聞くギタリストの不満、ギタリストに聞く踊り手の不満」に対する、“読者の広場”への投稿
「5月号の企画に異議あり!」
パセオ5月号拝見致しました。今まで少々の読みづらさや専門的な所が多くて困った時もありましたが結構楽しく読ませてもらっておりました。
でも今回の企画は一体何なのでしょう。正直言って失望させられました。人には必ず不満や色々な考えや気持ちがあるのは当然でしょうが、それを言語化し、文章化し、公の場所に公表するというのはどう考えて見ても納得がいきません。
若い人達がそれを見て勉強する等の意味の事が書かれておりましたが、それは編集部の思い上がりではないでしょうか。それによって得られる事はほんの少しの事柄だと思うのです。しかしそれによって失なわれてゆくものは本当に大きなものであると思われてしかたがないのです。
面白さや興味をねらったものであれば、それは週刊誌や芸能レポーターの次元です。そうでなければ今回のことは小学生の教室レベルの企画であると思います。
一体フラメンコを仕事としてなさっている人達が「パセオ」によって本当に助かっているのか否かは本当に疑問でなりません。本来ならばうれしさや楽しさで編集者の方々にはげましや感謝の手紙となるのが理想的なのですが、あまりの失望の念に打ち負かされ、それも残念ながら出来ません。フラメンコ界の善処を期待します。
(匿名)
来るべきものは来て、そのまま載せた。
あけだけ叩かれたのだから、もっと沢山くると思ったがこの一通だった。いま読んでも正論だと思う。先のためにもありがたかった。放置プレイじゃ前に行けない。
「フラメンコ界の善処を期待します。」
中小のフラメンコ・スポットは点在したが、ネットワークは存在せず。つまり正確に云うと、当時“フラメンコ界”はなかった。
パセオを正しく糾弾してくれるフラメンコ界。
早くそれを作らなきゃ。そう思った。
それこそが“思い上がり”だとわかっちゃいたけど、ナマイキ盛りの30歳。
9/7木(その40)
カンフル
[パセオ1985年7月号/表紙はアントニオ・ガデス]
5月号特集に対する6月号の匿名投稿に次いで、この号の読者欄には二つの実名投稿(ひとつは電話番号まで記載)が。
「5月号の企画に異議あり!」の匿名殿へ
異議を唱える自由があるならば、それに見合う義務もある筈です。名乗り出ずに批判まがいの事を行うのは「週刊誌や芸能レポーター」どころか「小学校の教室レベル」以下の行為だとは思いませんか?
読者の広場は、何も感謝やはげましの為だけのものでは無く、自由な意見交換の場であって良いと思います。しかし自分に火の粉がかからないような形で中傷を行うなど卑劣極まり無い行為だとは思いませんか?
編集部が敢えて活字にしたあの中傷文を読んで失望し、それ以上にいやな気分になったのは私だけでしょうか?
「匿名」様よりの善処を期待したいところですが、その程度の常識も、まして良識もお持ち合わせではないでしょうね、多分。
「5月号の特集について」
毎刊出版のご苦労お察し申し上げます。5月号の踊り手とギタリストの“奥歯にモノがはさまった”のではない言い分特集は、いろいろと反響が多いようで再々ご苦労に存じます。小生は企画として、又、実際の言い分を読ませてもらった上でも『可』と思いました。
日本人が関係した歴史も浅く、まだ何から何まで“手造り”“手探り”のジャンルなのですから、試行錯誤も凹凸もあって当然。そんな混然とした中にこそ高まりへ導くマグマがあり、飛躍するエネルギーがあるのだと言えます。
妙に治まってしまっては、去勢された様式のみが残るのみ!!
高尚な芸は素晴らしいが、高尚ぶる芸は悲しい!!
フラメンコにおいてはビギナーながら、三味線一梃で20年余り世を渡ってきた者として、あえて一言申し上げた次第です。
匿名の投稿もありがたかったが、特に後者の実名投稿には正直云って力をもらった。
さて、そんな一方で私はこんな具合(編集後記)だ。
この号が発売になる頃には、我が“パセオ”の第三種郵便の資格審査が出ることになっています。合格すれば本誌の増ページの可能性を開くことになりますし、又パセオを折らずに皆様方もお手元に届けることも可能になるわけです。もし、合格しなかったら………、その時は皆さん、共に泣いて下さい。
10/3火(その59)
ささやかながら
[パセオ1985年8月号/表紙はスペイン ZANBRA LA ROCIO]
とうとう合格しました、第三種郵便。御購読を続けて下さる読者の皆様方のお陰です。心から感謝します。
毎月18日頃に出来上がってくる我が子のようなパセオを、郵送料節約の為に三ツ折にする酷な作業から開放されたことは大きな喜びです。
この8月号で丸々一年。いろいろありましたが、何はともあれ、一年間出し続けられたことにホッとしています。
うれしそーな編集後記。第三種認可に加えて広告も増え、全24ページに増頁。
フラメンコギターのパイオニア、伊藤日出夫先生による『日本フラメンコ界の黎明期』連載スタート。
4頁の増頁分を使って『アルティスタ訪問』もスタート。ギターの杉本良一さん、高橋紀博さん、大沢憲三さん、踊りのクーロ宮田さんにそれぞれインタビュー。
「プロとしての初仕事は、結婚式場のフラメンコショーで1ヶ月くらいやりました。ギャラは黒の上下のステージ衣装。」
とはノリさんの回想だが、その頃のシンプルな空気が見えてくるようだ。
★10/4水(その60)
創刊一周年
[パセオ1985年9月号/表紙はアントニオ・ガデス他]
28名の方々から一周年についての祝辞をもらって大よろこび。印象的だったものを幾つか掲載させていただく。(敬称略、当時の肩書きにて)
公平な立場でフラメンコ発展のために努力されている事に感心しています。これからの益々のご発展とフラメンコの健全な興隆をめざして更に大きく飛躍される事を祈ります。又小生も出来る限り協力をさせていただきます。
(ギタリスト/伊藤日出夫)
限られた人数と赤字をかかえてここまでこられたスタッフの心意気には敬意を表しますし、この努力は実りつつある………つまりかくれた存在の愛好家を掘り起こし日本に於けるフラメンコの活性化に重要な役割をはたしていると思います。編集方針も正論だと思いますし、何より前向きの姿勢を私は買っています。
一人のアルティスタとしては“パセオ”スタッフの皆さんに負けぬ様研鑚をつんでいい仕事をし真の愛好家を育てる(ひいてはパセオの読者をふやす)責任を感じます。二周年もますます盛大にお祝いできます様に。
(ギタリスト/エンリケ坂井)
ロクに儲かりもしない雑誌をよくも続けるもんですね、お互い。フラメンコの情報誌なんて、2、3号も続くまいという大方の予想を覆して1年間も続けられたのは御同慶の至り。
ひとえに、失敗を恐れぬ素人の強みと、まわり中を関係者に仕立上げてしまう図々しさ、そしてフラメンコに対する献身的な愛情による成果と思います。今後もドゥエンデに富んだ誌面作りを期待しております。
(現代ギター編集長/中里精一)
今の世の中でフラメンコの専門誌などを、しかも月刊で出版していこうなんてのは、ほとんど正常な考え方ではない。もともとフラメンコファンが極少な上、雑誌などというものをほとんどバカにするタイプばかりだからだ。
しかし、恐れていたことが現実になってしまった。パセオが創刊され、しかも一周年を迎えてしまった。もう古い考えは捨てねばならないのか。いやいや、まだ一年ばかしのことじゃないか。三年続いたら、土下座するとしよう。――――ライバル誌編集長より
(ラティーナ編集長/本田健治)
奇跡の雑誌『パセオ』の創刊一周年を心からおよろこび申し上げマス。………いったいあの貧弱な創刊号を手にした時、この雑誌が一年も月刊誌として持続するなどと誰が予想したでしょうか。その奇跡を成し遂げたパワーで、今後も想像を絶する部数拡大と質的向上を勝ち取られて行くことを願ってやみません。
偏りのない雑誌作りを望む声が多いようですが、あたりさわりのない記事ばかり掲載する雑誌なんて何の魅力もありません。時には偏りを恐れない勇気を持って欲しいという気もします。どだい人間なんて完璧に偏りを持たずにいることなんか出来るわけがないのですから…。
(バイラオール/板坂剛)
軽薄短少の現代に対する誇り高き反逆とも見える「パセオ」の作業に、心からの敬意を表したいと思います。
“多様化”という言葉が、いつ頃から流行り始めたのかは知りませんが、どうも信じられません。一斉に叫ばれる多様化は画一化の始まりに他ならないからです。多様化という名の画一化。流されることを本分とする日本人。とにかく頑張ってください。
(ギタリスト/加部洋)
現在の数パーセントという当時のフラメンコ人口からすれば、「三号と持つまい」と100人中99人が考えたことは妥当だった。残るひとりの私は、そういう数学的見地に立った予測が出来るほど大人ではなかった。
喜び余った増ページの代償は、コメカミから火が出そうな大赤字。
★10/9月(その64)
天国と地獄
[パセオ1985年10月号/表紙は……あれ、何だろう?]
◆伊藤日出夫『日本フラメンコ界の黎明期』より
国際的ギタリスト、カルロス・モントーヤのアドバイスを受け、日本初のクアドロ・フラメンコのグループを結成した昭和30年代前半。
「クラブやキャバレーまわりの仕事が多かったですね。地方なんかの場合、5週間なら5週間行ったら行ったっきり帰れないわけです。
楽屋なんていうのもキャバレーの屋根裏部屋ですよ。ノミは出るし南京虫は出るし、食事はもう一汁1菜だけですしね。やはり辛いことの連続でしたね。
東京キューバン・ボーイズの見砂先生に見い出され、あちこちの労音のステージに連れていっていただいたののもこの頃でした。」
◆第一回清里スペイン音楽祭
1985年8月23日~25日の三日間。
濱田滋郎師一家主催による、あの伝説の“清里スペイン音楽祭”のその第一回目。
そのレポートを担当したのは私だが、まるで現在の私が乗り移ったかのような悲惨な出来映えだ。
それにしても、フラメンコもクラシックも一流どころが集合して、めちゃめちゃ楽しかったなあ。
天国清里から戻ると、「実家がもらい火事でやられた」との知らせ。駆けつければ家族は無事で、私のLPレコード2千枚は全焼。へこむ家族の面倒、火元との賠償交渉、招聘したドイツ人クラシックギタリストのプロモートと世話、通訳予定の先代女房は過労で倒れ、喋れぬ英語で切り盛りするが、パセオの締切は無情に迫る。
毎日二、三時間の睡眠で地獄の2週間を乗り切り「やれば出来る」ということを初めて知った。
「便所まで丸焼けで、もーヤケクソっ」という渾身のギャグが至るところで不評を買う。
★10/10火(その65)
革命ライブ中継
[パセオ1985年11月号/表紙はトーマス・デ・マドリー]
“アルティスタ訪問”はスーパー・マルチ・フラメンコギタリスト、染谷ひろしさんの登場。
「1971年に、24歳の時かな。初めてむこうへ行って。
マドリード、マラガのタブラオで約2年半、そしてマジョルカ、メノルカ、カナリアス、国外ではイタリア、ポルトガル、フランスと、いろんな舞踊団に参加して歩きました。
7年間で合計6ヶ月くらいしか休んでなかったんだから、よく働いたよね。よく遊びもしましたが。あんなに働いたのにいつもビンボーだったなあ。」
「アフリカのモザンビーグなんかでも1年ぐらいギターの仕事してました。その時もまさか仕事先がアフリカだなんてこと全然知らないで連れてかれちゃった。
あっちの方は革命が多いでしょ。ラジオ聞いてるとピストルの音が聞こえてくるのね。それで30分くらいゴタゴタしてて……それで新しい政府が出来ちゃったりしてね。それで、あわてて南アフリカ共和国に移って。
一日遅れたら多分つかまっちゃって、強制労働させられていたよね。」
うわっ。やっぱ鍛えの入り方がちがうよな。
プーロの島田(チョコラーテ)、モデルノの染谷っていう伝説は現在進行形。
★10/11水(その66)
わかる時
[パセオ1985年12月号/表紙はマノロ・カラコール]
◆アルティスタ訪問は、人気バイラオーラの田中美穂さん。
―――― 踊りを勉強されてる方に何かアドバイスを。
「あまり周囲に惑わされないで、自分の感性を大切にして、思ったこと、やりたいことをドンドンやっていくべきだと思います。先輩たちから色々言われても、それをすぐに受け入れることって難しいでしょ。
でも勉強を続けていけば後になって、ああ、あの時言ってくれたのはこういうことだったんだな、感謝しなくちゃな、ってわかる時がくるんです。
私の場合も、未熟な自分に対するせっかくの先輩たちのサジェスチョンにすぐに応えることが出来なくて申し訳なかったな、という思いは沢山残っています。でも、仕方ないんですね。」
◆山口椿さんのイルストラシオン(第11回)は、フラメンコ界の初代スター本間三郎。女性ファンをキャーキャー云わせた上体の美しさは、イラストからも充分に伝わってくる。
本間三郎を座長(つまりスポンサー)とする“木曜会”という月イチ飲み会(高円寺のエスペランサ)は15年以上も続いている。座長の人徳以外のなにものでもなかろう。
フラメンコ協会の田代事務局長、理事長補佐の鈴木眞澄さん、時々バイラオーラの悦子ママ、それと私の計五 名が当初からのレギュラーメンバーで、ギターの三澤勝弘さんなども時おり顔を出す。最近の話題は、業界の未来、下ネタ、人生論、下ネタ、芸術論などだ。
以前は、世間話、下ネタ、国際情勢、下ネタ、カラオケだったわけだから、ここ数年の木曜会は格段の進歩を遂げたということになるだろう。
それにしても本間先生、十五年もよく続いたよね。
ホンマかいなっ?て、すかさず画面にツッコミを入れたあなたなら特別参加を認めてもいいぞ。
11/01水(その83)
カルメンの自由
[
パセオ1986年1月号
/表紙はわれらが小島章司。わ、若っ!]
★新春ビッグ対談
20年前の新年号の目玉(全7頁)は、「濱田滋郎VS逢坂剛」による新春ビッグ対談。
膨大なレコードの重みで抜け落ちそうなスリルに満ちた、小田急・柿生は濱田邸の二階でその対談は実現した(85年11月23日)。
求道する両雄の、そのあまりにも真摯なやりとりに、司会進行役であるはずの私はひと言も発することは出来なかった。
いや、ふた言は云った。「そ、それではお願いします」と「あ、ありがとうございました」……(TT)。
この翌年、逢坂剛は永遠の名作『カディスの赤い星』で直木賞を受賞。
★ガデス自らを語る
自由は世の中で最も尊いことです。
自由を獲得するには、闘わねばなりません。
なぜなら誰も自由をプレゼントしてはくれないからです。
私の『カルメン』では、最終的にこの問題をテーマにしています。
カルメンは軽薄な女として過去何度となく演出されてきましたが、まったくそうではなく、男性から尊重され、男性と共に行動し、感情の私有物化を信じない女性です。
愛する時には愛し、恋が終われば関係を切り、自分の自由が守れなければ死を選ぶのです。
11/02木(その84)
片道切符
[
パセオ1986年2月号
/表紙はビセンテ・エスクデーロ]
★初の出張取材
(私の編集後記)
●
1985年12月20日
仕事に一応のケリをつけ、ありったけの現金をつかんで新幹線に飛び乗る。
新大阪から一路西宮の三好保彦先生(ギターの大御所)のお宅へ。
次から次へとアッと驚くド迫力面白話。単発のインタビューで扱うにはあまりにも勿体ないので急きょ連載を願う。再三辞退されたが、四時間粘って承諾を頂く。出足好調。
奈良県生駒市在住で旧知のピアニスト堀川圭嬢が梅田まで車で出迎え。お母上の関西風スキヤキのおもてなし、一宿二飯の恩義を受ける。
●
12月21日
難波経由で肥後橋に赴き、日本コンサート・フラメンコギター振興会会長の松並氏とギターの吉川二郎氏を取材。
次は神戸元町“ロス・ヒターノス”。バックを両肩にぶら下げカメラを首に引っ掛けて地図を見い見い歩く姿は我ながら不憫。夕刻到着、阿藤久子さん、石川敬子さんのアルティスタ訪問と藤塚栄二さんのインタビュー。
東仲一矩、大橋卯三美、石川敬子の三氏と、ヤッチャン問題で大騒ぎの夜の元町に繰り出し乾杯。大橋氏の車(何故か人は大橋タクシーと呼ぶ)で今宵の宿泊所、苦楽園の東仲邸へ。愛犬アルフォンソに舐め回しの祝福を受ける。
●
12月22日
天王寺でギタリストに吉川哲夫さんと面談の後、梅田のビジネスホテルにチェック・イン。東京の仕事を電話で片付ける。
夕刻からホテル近くのスナック“国境の南”に於いて関西アルティスタ7名による3時間余りの座談会。喫茶店で打ち上げて、ホテルへ戻り関西取材の総括。
関西のアルティスタについてまず感じることは、さっぱりしたイイ人が多く皆仲も良いのだが、ゆえにリーダーシップを取る人がおらず全体の団結はまだ弱いという点。まあでも東京にしてもそれは同じか。
ショックだったのは本誌が東京周辺の一部のアルティスタ、及び愛好家の為の雑誌と受けとられている点。全国誌を標榜し偏りには充分注意していた心算だったがまだまだ甘い。本誌イベント情報が関西に於いてもイベント動員を増強しつつある点、これは嬉しい。
●
12月23日
朝一でチェックアウト、電話代の高さに目が眩む。夕べの打ち上げで定期購読料を徴収出来てなかったら、名古屋あたりから歩く一手だったという怖い話。
車中、取材のテープ起こし。4月には再び西の取材をと決意。年末の忙しい中、快く取材協力下さったアルティスタ諸氏に感謝!
11/03金(その85)
編集長交代
[
パセオ1986年3月号
/表紙はアントニオ・ガデス]
「
人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からみれば、やはり狂気じみていることになるだろう。
」
(ブレーズ・パスカル『パンセ』)
考えてみると、こちらの狂気からあちらの狂気へと、渡り歩いて生きて来た。『ぱせお』の狂気も随分薄まったので、わたしも編集長を降りることにした。すぐそこまで別種の狂気が忍び寄って、顎(あぎと)を研いで待ち受けている。
フラメンコに関していま思うのは、もっと楽しみたいということ、そのためには少し理解を深めたいということだ。自分が老いるのは早かろうが、フラメンコは逃げないだろう。ゆっくり行くとするか。
(KAKEMITSU)
これは、架光時紀(かけみつ・ときのり)初代編集長の最後の編集後記。
ちなみに“パセオ”は架光の命名だ。
債務責任者の私は、次号より編集長を兼任することに。
どちらもノーギャラ、ではなく、どちらも泥沼の持ち出しだった。
「架光は“鋭いカミソリ”、小山は“鈍いナタ”」。
当時はこんな風に評されていたようだ。
しょっちゅう喧嘩だったが、いいコンビだったと思う。
架光は私より四歳年長。こののち極めて優れた詩集を出版する。
自らカタキ役を引き受け、鋭い問題提起の数々によって、閉鎖されたフラメンコの世界に必要な風穴をガンガンあけまくった功績のデカさには、今さらながらあきれるばかりだ。
敵も多く作ったが、そのほとんどは後年、彼の布石の健全さに感嘆の声をもらした。
本質的に彼は“義”の人であり、あれほど潔くアートを愛する才人を、後にも先にも私は知らない。
10/06月(その86)
逆ギレ勝負
[
パセオ1986年4月号
/表紙はパコ・デ・ルシア]
「史上最低のヘッポコ新任編集長、パセオの行方を語る!」と題する駄作を、貧しい誌面の中から2頁も割いて掲載。
例によって実にくだらねえことをさんざ語ったのち、最終的に私はこうブチ切れている。
――――――――――――――――――――――――
「パセオ存続のためのポイント」
よほどのことがない限りは、気合いもろとも公約通り丸々3年、残り16号を続けてゆきたいと切望してます。
ただし、全36号を発行し終えた時点で、最低限の経営状態に達していなかった場合で、しかも肉体的・経済的に続行不能な場合は廃刊にします。
最低限の経営状態とは、原稿料等支払うべき諸経費が支払えて、かつ専任スタッフ一人分(現在募集中の三代目編集長のことです!)の給料が支払える状態のことです。
具体的な目安で言えば、実売部数を2000部に、かつ広告量を現在の3倍に、といったところです。
実売目標の2000については、これは日本全国のフラメンコを仕事をする人、趣味とする人の総数をはるかに下回りますし、又2000の実売があれば広告を3倍にすることも可能かと思います。
前項の方針のもと、残り16ヶ月の間にこのパセオを、アマ・プロ問わずフラメンコに惹かれる方々のうち、最低2000名の方に有料購読してもらえるだけの内容と魅力を備えた雑誌に成長させてゆけるか否か。これが存続か廃刊かを決めるポイントになると思います。
――――――――――――――――――――――――
ひえー。なに逆ギレしてんだよおー。
ほとんど脅しじゃねーか。
生意気盛りの30歳。
クラシック系のプロモーターからジャズ雑誌の事務局まで、音楽関連のなんでも屋(有限会社)でどうやら食っていた私だが、毎日6~12時間の手間をかけても、平気で毎月数十万円の赤字を出すパセオは、まぎれもなく親の血を引く極道息子だった。
実を云えばこの逆ギレも、当時急速に増え始めたパセオの借り読み層に対する切実な訴えだったのである。
当時のマーケティングから、借り読み層の5人にひとりが買ってくれれば、何とかパセオを続行出来る見当がついていたのだ。
おいらも体張って頑張るので、今は零細だけど実力だけはどこにも負けない、このフラメンコ村の明るい未来のために、毎月300円の村会費(特典はパセオ進呈)を払ってください、という強気で傲慢なお願いだったのだ。
「
アートは、他を頼らず、それを愛する一人ひとりの心意気で守ってゆくもの
」と認識する自立的な理解者をどこまで増やせるのか?
いや、それどころか、かえって反発を喰らって自滅の時期を早めてしまうのか?
と、まあ、本人的にはかなりヤケクソ的な勝負に出たつもりらしい。
で結局、この一人よがりの真剣勝負が、可もなく不可もなく、まったくの空振りに終わったことは云うまでもない(TT)。
11/07火(その87)
何てステキな葛藤
[
パセオ1986年5月号
/表紙はガデス&オヨスの映画“恋は魔術師”]
静寂を歌うシギリージャ……。
この達人(当時32歳)の奏でるギターソロ、恐るべき深さを持った“シギリージャ”によって、24歳(パセオ創刊4年前)の私は日本のフラメンコの世界にスコンと吸い込まれたのだった。
この号(1986年5月号)のアルティスタ訪問は、私の青春に決定的なインパクトを与えてくれたギタリストの三澤勝弘さん。
今読んでも濃厚かつハイレベルな内容で、全部掲載したいところだが、苦悩するアーティストの“葛藤”を垣間見る部分を抜粋で。
その頃はニーニョ・リカルド(注:パコ・デ・ルシアにも影響を与えた大ギタリスト)一辺倒でしたから、僕のフラメンコ観というか、むしろギター観に大きな影響を受けました。
彼のやることなすことすべて、フラメンコとしてギターとしてそれが最良のものと信じ、また自分も少しでも近づきたいと努力しました。
また、当時はリカルドのスタイルを引き継ぎたいという気持ちも強くありました。その頃はスペインの中でもリカルドのスタイルというものが消え去りつつある時期でしたから余計に。
主流がパコ・デ・ルシアあたりにまさに移らんとする頃だったのですね。
スペインでそういうものが受け継がれてゆかないのならば、外国人である自分がそういうものを継承してゆくこともまた意義があるのではないかって思ってました。よし、自分がリカルドを継いでゆこうって。 まだ若かったし、気だけは大きかったから(笑)。
帰ってきてからもそういう風にやっていたのですが、ある期間過ぎると今度は、やはり自分のものを大切にしなくてはいけない、そうでないと自分が伸びていかないっていう風に思う時期がやってきて……。
それでまたそういう期間がしばらく続くのですが、無理に自分のものを弾こうとすると安っぽいものができてしまったりとか、そういう壁にぶち当たる。それで再びリカルドに戻ってみると、その方が実際に自分が生き生きとしてきたりしてね。ズッとそんなことの繰り返しでした。
自分にとってフラメンコそのものであるリカルドのスタイルの継承、自分の持っているものを自然な形で表現すること、その二つの事柄の接点を一時期やはり随分考えました。
自分が自然に出れば出るほどリカルドとは離れてゆく時期もありましたし。
結局はわかりませんね。
ただ、リカルドをとらえてゆくには、フラメンコという枠からとらえてゆくのでなくて、演奏を通してリカルドという人間の内側からとらえてゆく方がベターであるとは感じています。
リカルドの演奏から感じることは……非常に存在感はあるのだけれど、けっして図太いものではない、むしろ少し細めで女性的な面を持ったもの、ただ、それがあやふやなものだということではなくて、確固たる存在があって、それでいて枝葉や遊びがある………こまやかですね。
当然ながらニーニョ・リカルドのシギリージャは天下の音楽遺産だが、三澤勝弘のシギリージャに私は、例の「青は藍より出でて藍より青し」を思いきり感じるわけだ。この夏エスペランサの木曜会で呑んだ折りに、本人はそれをきっぱり否定されたが。
宇宙の神秘さえ想起させる、あのシギリージャ独特の休符の間(ま)。
これまでに数百名のギタリストによる生シギリージャを聴いたが、あの静寂の波間に、あれほど深く豊かな詩情を与えることのできる弾き手を、私は他に知らない。
11/22水(その96)
変化したもの、しないもの
[パセオ1986年6月号/表紙は???]
4月号(20年前の)に載せた私の逆ギレ文が、良くも悪くも評判を呼んだため、それに対する意見を載せるコーナーを設けた。
題して『
パセオをどうするコーナー
』。
まるで「他人事かよっ」みたいなノリで、我ながら相当イッテたなという感じだ。ま、明るいヤケクソと云えないこともないだろう。
この号には、パセオが創刊した頃に、同じくカンテ・フラメンコの大巨匠アントニオ・マイレーナの追悼本を自費出版(もちろんウン百万円の赤字)したインテリ侍、小櫃治郎さんが寄稿してくれた。そのほんの一部を。
なによりも廃刊にしようなどとは思うな。
傾いたら休めばいい。
そして起き上がれたら、又歩き出せばいいというのが私の考えで、やたら持続させる事にだけ価値を置く考え方に私は反感を持つが、万一廃刊の憂き目に会うことになった時、パセオ編集部が無責任のそしりを受ける謂れはない、という事をこの際言わしてもらおう。
持続させたい意志を一番切実に持っているのは当事者であることは自明の事なのだ。
なんかもうツブれることが前提で、あらかじめそれをフォローしてくれてるみたいな感じが、今読んでもとてもうれしい。同病相哀れむ的な連帯感が芽生えていたのだろう。
そのころ出版界に生息していた小櫃さんは、出版界の厳しさなど一人も知る者のいない当時のフラメンコの世界の中で、私(←出版ど素人)に客観的なアドバイスを与えることのできる唯一の人間だったのだ。
現在のフラメンコ市場は、パセオ創刊時の約100倍になった。
“フラメンコ”の一般的な浸透度やステータスの高さはそれ以上になったかもしれない。何せ当時は「フラメンコをやってる」と云うと、白い目で見る人が多かった時代だ。
その一方、出版事情は当時の十倍はきびしくなった感触がある。当時はまたネット時代のネの字もなかった頃だからな。
ところで、昔も今も変わらぬものがひとつだけある。
それは、わが愛しのフラメンコ愛好家の活字嫌いである。(TT)
11/23木(その97)
連載二十年
[パセオ1986年7月号/表紙はホセ・ミゲル]
パセオのご長寿人気連載、堀越千秋画伯(&カンタオール)による『
渋好み純粋正統フラメンコ狂日記
』。
その記念すべき第一回目はこの号からスタートした。
じゃ、そこからほんのちょっとだけ抜粋。
この冬、東京の丸の内画廊で個展開催のため、僕は帰国した。
すると、未知の〈パセオ〉の小山さんから電話があって、「一寸お話が」という。
〈パセオ〉の存在はすでに知っていた。帰国後レコード屋で2冊程見つけて、熱烈的に激買した。
恐らく、こんなにも入魂の読者達に支えられる雑誌も少ないのではないか。これは火に油を注ぐ雑誌である。危険な雑誌ではないか、と思っていた。
その編集長からの電話だったのだ。
まず愚妻に1才の娘を背負わせて偵察にやった。
すると帰宅していわく、「面白いよ面白いよ、小山さんて、カサ・グラナダのヘスースそっくりだよ。」というので、確かめに出かけた……。
その折りの「話」というのが、この原稿を稿料ナシで書け、というのである。
本当に小山氏は親愛なるヘスースによく似ていたので、思わずウンと言ってしまったのだった。
二十年前の話である。
画伯の連載はパセオ最新号では215回目を迎えている。
これは月刊誌の連載としては驚異的な数字なのだ。
理由は簡単。ものすごく幅広い層に人気があるからだ。
休載中も『人生相談コーナー』を引き受けていただいたが、あれも面白かったなあ。想像つくよね。
それにしても、この連載がまさか二十年続くとは、あの当時いったい誰が予測できたろう。
パセオの次の号がほんとに出るかどうか? 業界でそんな“賭け”が流行ってた時代だったのである。
11/24金(その98)
更新忘れりゃ即廃刊
[パセオ1986年8月号/表紙はマヌエル・カーノ]
今月より、購読料が切れた方に別便ハガキでお知らせすることになりました。催促ハガキがこない内は安心していてください。
さて今月は恐怖の大量購読更新時期に当たってまして、更新手続きを必要とされる方はザッと300名。
更新漏れの恐怖を少しでも緩和するために今月から郵便振替票を添付しました。現金書留なんかだと面倒臭い上に手数料を400円以上ふんだくられますが、右ページの赤っぽい票を使うと手数料がタダの上に、書込みや手続きが60秒位で済む訳です。
『手続き1分、購読1年』とか『
更新忘れりゃ即廃刊
』とか有名な格言もありますので、どうか皆様よろしく。
この8月号でパセオも丸々2年。
新連載が好評を博しているマドリーの堀越画伯の「恐らくこんなにも入魂の読者達に支えられる雑誌も少ないのではないか」とのご指摘の如く、パセオはまさにそれによってここまで来ました。
そしてこれからも、読者エネルギーの総量が今後のパセオを決定付けて行くことでしょう。
我々編集部は、芋は芋なりに全力を尽くすのみです。
1986年8月号。
ちょうど創刊満二年にあたる号だ。すでに満身創痍である。
逆ギレ街道を突っ走る、ただひたすら厚かましい(↑)私の編集後記。
“脅迫シリーズ”第二弾である。
気弱な一匹狼だった私は、フラメンコの出版事業を通して、気弱で厚かましい一匹狼に変貌を遂げたのかもしれない。
11/27月(その99)
市民権
[パセオ1986年9月号/表紙はアントニオ・ガデス]
1986年9月号の編集後記より。
●ガデス旋風もひと段落だなと思ってたら、NHKやら日テレやら、あるいは大手週刊誌などから、ここ最近再びフラメンコに関する問合せが相次いでいます。
やっぱりガデスの一般へのインパクトは強かったんだなぁ、思わず又表紙に使ってしまいました。撮影者は人気爆発“フラメンコアーツを撮る”の渡辺亨さんです。
●商業劇場がいよいよフラメンコに注目! 博品館劇場の第一回フラメンコ・フェスティバル、先方から全面的な協力を要請され、勿論本誌としても出来る限りの協力を惜しまないつもりです。そのかわり第一回と銘打つ以上は最低第百回くらいまでは続けていただきましょうね。
●原因不明の発熱に見舞われ、4~5日ばかり38~40度をさまよいながらの編集作業。体はポカポカ、頭は酔っぱらい、おかげでクーラー代と酒代がずいぶん節約できました。
逆ギレに高熱が加わり、さらにイカレポンチ度を増す私。
当時はフラメンコ・ストリップなんかの影響もあって(私は大好きだったが)、フラメンコの評判は一般的にあまり芳しいものではなかったのだ。
“ユニバーサルなアート”に立脚したアントニオ・ガデスの全国公演はそうしたイメージを根底から覆した。
「フラメンコ習うなんてとんでもないっ!」
それまでこう云ってた世のお母さんお父さんたちは、
「へえー、いいじゃないのー、フラメンコっ!」
と、手のひらを返した。
「おせーんだよ、おめーら」
というお下品な言葉を、私はお上品な微笑みとともに呑み込んだ。
日本におけるフラメンコの市民権が確立されたのは、まさしくこの時期だった。
11/29水(その101)
老化現象
[パセオ1986年10月号/表紙はカマロン・デ・ラ・イスラ]
カマロンが表紙のパセオ1986年10月号。
ぼんやり眺めていたら、表4(裏表紙)には『小島章司フラメンコの世界/瞋恚の炎』、表3(裏表紙の裏)には『佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団/エレクトラ』の公演広告が載っている。
懐かしいなあ。
二つとも凄い内容の公演だった。たしか、どちらも大きな賞を受賞しているはずだ。
小島章司さんの『瞋恚の炎』は、碇山奈奈さんの『忠臣蔵』や、鍵田真由美さん佐藤浩希さんの『曽根崎心中』に先駆ける、日本の古典を題材にする創作フラメンコの最初の傑作だったと思う。その時は、入交恒子さんが重要な役回りを見事に踊りこなした記憶がある。
一方の佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団の『エレクトラ』は、ギリシャ悲劇に素材を取った大がかりなフラメンコ・スペクタクルで、そのド迫力と舞踊団の一糸乱れぬアンサンブルには驚かされたものだ。
当時は今よりさらに、プロアマ問わずいわゆる“プーロ・フラメンコ”志向が強い時代だったから、この二つの公演がフラメンコの世界の人たちに強い関心を持たれることはなかったのだが、むしろ私はこの二つの作品にフラメンコの未来への明るさを感じていた。
“プーロ”と“モデルノ”、“タブラオ”と“テアトロ”などは対立構造で捉えるべきではなく、むしろ相互補填する関係にある、というのが私の考えだったが、自分の属する流派以外はみんな敵みたいな当時の風潮は、なんだか熱血三文小説的な凄みもあって、それはそれでエキサイティングな面白みがあった。
ま、それはそれとしてあの頃は、小さなマーケットの中を、数百万から千万単位の赤字覚悟で、多くのアーティストたちが劇場公演に命の炎を燃やした時代だった。
それから20年。ふと気付けば、現在でもそうしたチャレンジを果敢に続けるアーティストの顔ぶれに大きな変化がないことに、私はただ愕然とすることになる。
冒険という生涯財産を考慮せずに、短期経済効率だけの観点から考えれば、今の若い世代の方がはるかに賢いことだけは確かなようだ。
それを寂しいと感じるのは、いよいよ老化現象の表れである。
★11/30木★(その102)
異端者同盟
[パセオ1986年11月号/表紙は岡田昌巳、小島章司、小松原庸子]
1986年11月号。
現在ならブログやmixiのコメントのやりとりに相当することを、こんな風にやってたんだね。
私の編集後記(↓)。
購読お申し込みの振替票通信欄に半数以上の方がコメントを書き添えてくれていますが、そのほとんどは励ましやお褒めの言葉でもう毎日のけぞって喜んでるわけですが、最近感動した作品を三つばかりご紹介します。
[その1]
いつつぶれるのかと楽しみにしながらもう2年。最近はつぶれるには惜しい記事もあったりして小生複雑な心境です。
[その2]
定期購読にふみ切れなかった理由をあげまして、この度申込むことに決定しました。
◇字がこまかくてびっしりなので読むのが何となくつかれる。(隅々まで読まないと気がすまないたちなので)
◇ワープロの文字に何となく反発がある。(自分が写植屋なので)
◇記事の内容が何となく専門的すぎる。(フラメンコ等に関して全くの素人なのでとっつきにくい、入り込めない感じ、自分がよそ者の感じ)
[その3]
創刊号より愛読しています。様子もずい分変わってきましたが「異端者同盟」みたいな感じが好きで読んでいます。むずかしいところですが、その辺をよろしく……
12/1金(その103)
次行こう
[パセオ1986年12月号/表紙はマヌエラ・カラスコ]
マヌエラ・カラスコがはみ出しそうなパセオ1986年12月号。
連載二十年、パセオ最新号でその第216回目を迎えた堀越千秋『フラメンコ狂日記』(その6/ドタメンコのすすめ)の抜粋(↓)を。
さて、私が専らにやっている絵というものは他の何に一番似ているか。
―――絵は、数学に似ているのである。
ところで私は、中学高校と数学に悩んだ者である。中学の数学担当のM先生(御名前は忘れませんぜ。)は、ある時言った。
「よーし、皆わかったか? わからん者は正直に手を上げろ。」
私は正直に手を上げた。
「よーし、一人か、次いこう。」
高校を、私は数学0点で出た者だ。
クラス担任の池田先生は心配された。
「おまえ、もう一寸何とかならんかァ。」
しかし私は英語と現国の成績が良く、数学0点でもトップクラスにいた。私は馬鹿ではない。
ある時、新任の数学教師が来た。
「このクラスで数学の一番出来る人は誰ですか?」
この差別的言辞に旧友の岡野がすかさず答えた。
「ホーリコッスィー!」
以後、むずかしい問題になると先生は私を名指した。
私は「わかりません」と答え、先生は、「そーかァ、ほしこし君でもわからんかァ。」
その私が、数学と一番似ている絵というものを描いているのだ。
日本の数学教育とは何であったのか?!―――と見得を切る前に、では何故数学と絵が似ているのか、を書かねば議論は成立しないのだが、何だか面倒になってきた。
書き出せば一冊の本、だ。そもそもこれを読む数学教育関係者が何人いるのか。いたら手を上げてくれ。
よーし、一人か。次いこう。
それにしても広い日本の小さな貴重なフラメンコ誌の頁をこういう無関係事項で汚してよいのか?―――よいのだ。何を書いてもいいです、というのが小山氏との約束だ。
フラメンコは浪費だ。さて、人生は?……
あっはっは。昔からオモロかったんですねえ、画伯。
数学とアートがそっくりだって。
四十代半ば頃から、私もようやくそれがわかり始めますた。
ところで、ついでにみんなに質問だ。
私のこのブログがつまらんと思う者。
いたら手を上げてくれ。
よーし、全員かい。全員逝ってよーし。(TT)
12/4月(その104)
云い訳
[パセオ1987年1月号/表紙はバイラオーラの脚]
パセオ1987年1月号。
クラシックギター製作家として国際的に有名な河野賢氏のインタビューが載っている。聞き手は私。
“世界の河野”と称された超一流の職人だが、一方で『現代ギター』の社長でもあったギター界のビッグボスである。フラメンコが好きで一時タブラオを経営してたこともある。
本質を射抜く直観力と大胆な行動力、そして底知れぬ深さと優しさを兼ね備えた、いわゆる“超大物”だった。
フラメンコのぺペ・エル・チョコラーテ(島田好志)さんとクラシックギターの渡辺範彦さん。その両天才によるジョイント公演を私がプロデュースしたことを河野師はとても喜び、それを契機に親しくお付き合いさせていただいた。
立教通りにある師のご自宅近くの池袋西口で、週に1、2度は飲ませてもらった記憶がある。
駆け出しの私に河野師は雲の上の人だったが、生意気な私はよく議論を吹っかけたものだ。しかもタメ口で。
そういう私の馬鹿さ加減が、師には珍奇で面白かったのかもしれない。
毎度ふたりでブランデーのボトルを空けながら、随分といろんなことを教わった。
「
現代ギターの編集長、やってみんか?
」
互いにすっかり本音で話せるようになった頃、師はある日突然私にこう切り出した。
大切な事は三秒以内に決断するタイプ(O型)の私は、即座にこう答えた。
「ムリだよ」
「何で?」
「人に使われるのは好きじゃあない」
「…………そりゃ、まあ、好きな奴はおらんな」
力なく笑った師の顔は今でもよく憶えている。
名誉と給料がもらえる現代ギター編集長。
名誉の代わりに借金が増えるパセオ編集長&社長。
パセオから逃げ出すつもりはなかった。だが同時に、伝統と格調の『現代ギター』の編集長がこの私に務まるはずのないこともわかっていた。
河野師が他界されてもう八年経つ。
勘違いとは云え、あれだけ私を買いかぶってくれた師に、結局何ひとつ恩返し出来なかった。
パセオを続けていることだけがせめてもの云い訳だ。
いまも夜の池袋界隈を歩くと、師と楽しく飲み歩いた日々を想い出す。
12/14木(その111)
明日に架ける橋
[
パセオ1987年2月号/表紙はエル・グィート
]
1987年2月号。
てっきり人間かと思ってたが、今やすっかりスペインと日本のフラメンコを結ぶ架け橋となってしまった志風恭子(ペンネームは南)がこの号でボランティア・デビュー。
その編集後記から。
●はじめまして。南です。
9時から5時まで普通のOLやってます。
去年の今頃はパセオの存在はおろか、フラメンコのフの字も知らなかった私です。どうしてこんなところにいるのでしょう? う~ん、不思議だ。でも、ま、いいか。
というわけで(どういうわけだ?)自分の好奇心だけを頼りに走りまわってる私です。いまだ初心者マークもとれない新参者ではございますが、どうぞよろしく。
●バレンタインデーがすぐそこです。憧れのあの人にパセオ1年分。毎月毎月、いやでもあなたのことを思いだしてくれますよ。(南)
当時の南はけっこう生意気な問題児だった。
類は友を呼ぶのだ。(TT)
新宿ナナをはじめとして、彼女の取材先の足跡をたどってはぺこぺこ頭を下げてまわった記憶がある。
閉口しつつも、心の底で私はうれしかった。
想えば、これが志風恭子のフラメンコ物語のスタートだったのである。
12/15金(その112)
ヘタな鉄砲
[
パセオ1987年3月号/表紙はアントニオ・ガデス
]
二十年ほど前のパセオ1987年3月号。
正月に読んだサムエル・ウルマンに感激し、有名な『青春』という詩の要約を編集後記に書き写している。
若さとは人生のある時期のことではなく、心のあり方のことだ。
若くあるためには、強い意志力と、優れた構想力と、激しい情熱が必要であり、小心さを圧倒する勇気と、易きにつこうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。
人は歳月を重ねたから老いるのではない。
理想を失うときに老いるのである。
歳月は皮膚にしわを刻むが、情熱の消滅は魂にしわを刻む。
人は信念に比例して若くあり、疑いに比例して老いる。
自信や希望に比例して若くあり、恐れや絶望に比例して老いる。
すべての夢を失い、心の芯が悲観という雪、皮肉という氷に覆われるとき、その人は真に老いるのだ。
そのような人は、神の哀れみを乞うしかない。
30歳をすぎ、同期の旧友たちが社会的にめきめき成熟してゆくのに対し、相変わらず私はガキのまんまだった。
私も成熟に憧れたが、普通の大人になってしまえばパセオの続行は難しいというジレンマが直感だった。
この『青春』のような、折れそうになる心を前向きに鼓舞してくれるコンセプトに賭ける以外、私には選択の余地がなかったように思われる。
毎日の資金繰りにあえぐ、当時の私に最も欠けていたものは「お金」「常識」「知性」「慎重さ」だった。
この編集後記のラストも、結局こう結んでいる。
「
てなワケで、
とりあえず増ページだいっ!
」
(TT)
12/22金(その117)
スペイン舞踊の夜明け/河上鈴子に聞く
[
パセオ1987年4月号/表紙は碇山奈奈
]
日本のバイレ・フラメンコのルーツ、河上鈴子。
間接的であるにせよ、すべてのフラメンコファンはこの巨星の残した功績のその恩恵を蒙っている。
1987年4月号。『スペイン舞踊の夜明け/河上鈴子に聞く』の最終回。
そのほんの一部を抜粋。(聞き手はロコ)
――― その翌年には第二次世界大戦が勃発しましたね。
丁度その年に私は、南米に行って各地で公演をし、又民族舞踊を研究していました。
2年後に帰国し、軍人会館にてリサイタル。満州国に渡り、慰問も行なったのです。
おこがましい事ですが、自分に子供がいないので1人でも多くの子供達を健康で良い日本人として育成したい為、戦争中ではありましたが、1942年、蒲田のスタジオに幼稚園を併設したのです。
2年半で戦争が激しくなり全面閉鎖し、そこはフジ電機の消火器製造工場となりました。
その矢先、大変おそろしい事が起こりました。
忘れもしません、1945年4月3日。空襲にて1トン爆弾が研究所に落ちたのです。
生徒数人が死亡しました。
各国で知り合った友人からの手紙、写真、衣裳などと共に消え失せてしまいました。
これらは私の宝物。
そして青春の思い出でした。
それから住居を現在の世田谷に移したのです。
この厳しい時代の延長線上に現在の日本があり、同時に今のフラメンコの活況がある。そのつながりを意識するところに、新たな発見が生まれることもあるだろう。
先生がおなくなりになる何年か前に、世田谷の九品仏にあったご自宅に何度かお邪魔してお話を伺った。
そのたびに、先生自ら入れてくださったおいしい紅茶の味が今も忘れられない。