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何て素敵なこのディスク

元気がもらえるフラメンコ


2/3日(その251)

白い一日





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 カーテンを開く瞬間の雪の朝のよろこびは、タブラオの扉を開けカンテ・ギター・パルマが飛びこんでくる刹那に似ている。



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 「春もそう遠くないな」。
 そうつぶやいた途端の積雪である。
 私の説の逆を行けば必ず当たる、という伝説は今日も不滅だ。



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 昨日からうっすら風邪気味なのだが、仕事や風邪は明日でもできる。
 女心と雪の空、と云うではないか、云わねーよ。
 ま、しかし、今日は今日とて今日しか出来ないことをしようではないか。



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 とにかく江戸っ子は理屈ぬきで雪が好きだ。
 NHK将棋トーナメントで天才羽生がまさかの大逆転で異才長沼に負かされるのを横目に、連れ合いのリクエストに応える特製鬼才カレーの仕込みを終え、積雪用耐寒タイツ、特殊戦闘用ブーツ(ふつーのももひきと長靴 。TT)という完全装備でさっそうと雪野原へと繰りだす。
 水を得た魚と云うか、雪を得た豚とゆーかは微妙だ。



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 ゆらりハナミズにさすがに遠出はあきらめ、雪化粧にときめくわが家の庭(巷では代々木公園、明治神宮などと呼ばれている)をゆっくりじっくり散歩する。
 今月末にトマティートやホセ・マジャとともにやってくるドランテのピアノフラメンコを耳に、冬の醍醐味を味わい尽くそうとする52歳・男の哀愁とささやかな幸福。



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 遠い昔の、雪の日の想い出が走馬灯のようによみがえる。
 そのほとんどは想い出すのも恥ずかしい悲惨な記憶ばかりだが、いまとなってはそのポジティブな失敗の山々に好感さえ持てるぐらいですってほんとかよっ。

 センチメンタルな風情に、何の脈絡もなく脳裏をかすめる陽水の一節。



   ある日、踏み切りのむこうに君がいて
   通りすぎる汽車を待つ




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(7)パコ・デ・ルシア/歩きたいだけ

                       (06年10/14土社長室 より)




 私は歩き続けていきたいだけ。

 雨が走るように、川が海に流れるように……




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 パコ・デ・ルシア/歩きたいだけ』 polygram 1981年



 兄ぺぺ・デ・ルシアが唄うタンゴスの名曲『ソロ・キエロ・カミナール(道)』の一節。
 抜群のノリ、そして、どーしてもご一緒に唄いたくなってしまう懐かしいメロディライン。

 "フラメンコギターの神"と崇められたパコ・デ・ルシアが、「片手に伝統、片手に革新」を旗印に国際音楽シーンで異種格闘技的に暴れまくっていた頃(1981年)の録音だ。のちのセクステットの原型もここに見られる。



 毎日のように聴いていた。正座かなんかで。
 したい放題に暮らしていた当時26歳の私が感じた「驚き」「憧れ」、そして……「あせり」。
 良し悪しはともかく、若い「あせり」がその三年後にパセオを創刊させた。



    ********** ********** **********



 熱い夏が去り、いよいよ天高くしゃちょ肥ゆる秋の到来。

 パコ・デ・ルシアのギターとともに、さわやかな秋のアイレに包まれた街々を歩きまわることは、慎ましやかな私にとっての決して小さくはないよろこびだ。

 そうして今朝もこのアルバムを聴いたが、もぎたての「驚き」「憧れ」は25年前と同様に新鮮だった。

 では、残る「あせり」もそのままか?

 ……いや、ちょっと変わったかも。

 その半分は磨きのかかった「やけくそ」に、もう半分は「ま、コツコツ行こーか」みたいな比較的明るいメロディに変わったかもしれない。








(6)カニサーレス/イマンとルナの夜

                       (06年10/02月社長室 より)




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フアン・マヌエル・カニサーレス/イマンとルナの夜
 NUEVOS MEDIOS 1997年




 「うわっ!速えっ!凄ぇ! でもアブねーよ、おいおい、やめろってば、落ちるからよお」。


 落ちるどころか平然とスピードを上げながら宙返るカニサーレス。
 パコ・デ・ルシア・トリオの日本デビューで、いきなりギンギンのギター即興をブレイクさせた彼の印象は強烈すぎた。

 思うに、彼の前世はスゴ腕の飛行気乗りだったのではないか。
 速度や高度の計算、操縦桿さばきは完璧で、いきなり太陽めがけて急上昇したかと思えば、キリモミで急降下しながらゴルゴ13のような正確射撃で、並みいる敵機をなぎ倒す。
 ふと見上げれば、彼の軌跡には七色の虹がさん然と輝くのだ。



 そんなアクロバティックな超絶技巧をさておけば、彼の最大の特性はズバリ、類まれなる色彩感覚にある。

 まっさらのカンバス上に彼が好んで用いるのは目映いばかりの原色だ。
 全体はフラメンコを基調とするトーンだが、そこにジャズやロックやクラシック近代等の色彩を奔放にちりばめ、それらを大胆緻密なデッサン力でキュビズム(立体主義)的に締めくくる。

 夜空いっぱいに、楽しげにブチ切れた流れ星の閃光が舞うルンバ。
 カラフルな宇宙空間を3拍子で軽やかにドライブするブレリア。
 レモン浮かべるカンパリの向こうに、沈む夕陽の水平線がみえるバラード等々。

 ただひたすら、スタイリッシュでエロティックな陶酔感にどっぷり浸かってみるのが大正解!
 ちなみに、コロンビアーナはほとんど“ガリガリ君”だぞ。








(5)フラメンコウーマン

                         (06年9/12火社長室 より)



 女性を主人公とする映画はたくさんある。
 ヒロインたちはそれぞれに魅力的だ。
 ただ、性別を超える普遍的で人間的な共感となると、そこいらを魅せてくれるヒロインにはそう滅多にお目にかかれるものでもない。
 が、いるんだな、それが、ココ(↓)に。


 マイク・フィギス監督によるドキュメント映画 『FLAMENCO WOMEN』 における、エバ・ジェルバブエナとサラ・バラスである。

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 ズシリとした重力空間の中で、どんな瞬間にもフラメンコ的な真実と存在感を失うことのないエバ。

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 生彩ゆたかでスタイリッシュ、爽やかな大気に香ばしい詩情を解き放つようなサラ。

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 異なるふたつの個性は、真正面から向き合って一瞬もひるまない潔さで、フラメンコそして自分自身と対峙する。
 困難な試みにチャレンジを続けるその輝くような覇気と超絶技巧。


 これぞフラメンコ、これぞ人類共通の憧れ!


 その大いなる共感に、生命の根源たる母性と太陽のような女性性がオーバーラップするに至っては、男女差を超える普遍性どころの騒ぎではなくなってる。

 彼女たちを「私らとはちがう、天才だから」の一言で片づけてしまうのは簡単だが、あのひたむきで挫けない真剣な練習シーンを観て思い起こすのは、むしろ司馬遼太郎のあの言葉だ。

 「何事かを成しとげるのは、その人の才能ではなくて性格である」。



 幾つになっても、性格には改善できる余地がある。

 ………そうでなければ破滅必至の私としては、必死でそうお祈りする。








(4)カマロン/カジェ・レアル

                         (06年9/3社長室 より)



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 [カマロン/カジェ・レアル]POLYGRAM 1983年



 どうだい、この素敵なジャケットは!
 グッドデザイン賞もんだよね。

 でも中身はもっともっと凄い。
 日曜日の朝は『カジェ・レアル』でなければ始まらないくらいに凄い。数千はあるフラメンコのCDの中でも、フィジカルな快感度はもっとも高いのではないか。


 オープニングからいきなり、カマロンは気合いの入りまくりで、あおりにあおる豪華バック陣(パコ・デ・ルシアやトマティート)のパッションを全身に受けとめて、胸のすくような疾走感でラストまでを歌いぬく。

 ドラマティックな高揚感をともなうしゃがれた美声と、原野を駆けぬける豹のように敏捷で力強いリズム感はメンバーたちに即フィードバックされ、互いに相討ち覚悟で鋭く踏みこむ。

 そのうねりながら躍動するアンサンブル、スタイリッシュで野性的な超絶技巧、命のよろこびが弾けるコンパス。それらが渦巻きながら高めあう灼熱のスパークに焦がれぬハートはないだろう。


 カマロンは日々の生活の中に“祭り”のインスピレーションが充満していることを熟知していて、それを切りとって私たちの前に響かせることを楽しんでいるかのようだ。

 ひとり引きこもる不毛や、周囲に当たり散らすヒステリックな不毛の狭間に、人間のポテンシャルの頂点を探り当てたセンスには今さらながら息を呑む。
 その境地からは、人生の仕組みや幸福の本質がサクサクと見えているのではなかろうか。


 それにしてもこの音楽の新鮮さはどうだ。
 23年も前の録音なのに、まるでさっき出来上がったばかりみたいにピチピチ跳ねてイキがいい。

 かくして輝ける日曜日は幕をあけ、聴き手たちもそれぞれの祭りに没入するのだ。




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(3)フェルナンダ・デ・ウトレーラ/おんなうた

                         (06年8/28月社長室 より)



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 フェルナンダ死す。


 パセオ誌上でも大活躍するスペイン在住青柳裕久さんから、『フラメンコの素晴らしいカンタオーラの死』と題された新聞の切り抜き訳がメールで送られてきたのは、実は先週木曜(06年8月24日)の夕方のことだった。

 四日がすぎて、ようやくそのことをご報告する気になったが、「かなりショックです。内臓が重いです」という青柳さんの感想以上のものはいまだ出てこない。


 私にとってフェルナンダ・デ・ウトレーラという唄い手は、とても因縁の深いアーティストだった。
 三十歳目前に彼女のその強烈すぎるカンテに当たってしまった私は、それまでの生き方を根こぞぎ否定されたような気分に落ち込むことになる。

 彼女の唄は“真実”そのものであり、私の人生はその真逆に位置していた。
 フェルナンダの純生フラメンコにのめり込んだその一時期、パセオ運営における私の立ち位置は大きく揺らいでいた。

 結局私はそうでなくとも危機的な現実社会へと戻り、フェルナンダのレコードをその後十数年にわたって封印することになる。
 だが逆に、あのショッキングな出逢いがなければ、それなり以上に厳しいこの世界で、折れないモチベーションを保ち続けられたかどうかは疑問だ。

 フェルナンダは“両刃の剣”そのものだった。



 最近になって、ヘソが茶を沸かすようなこんな愚文を書いた。

 「ガツンと一喝」 「逆転の光」 「廃物利用

 ただ、私がいつもこうしたレベルの駄文を書いていると思われても困る。これでも私にしては最高傑作の部類に属するものなのだ。



 さて、今回また改めて、レコードというのは本当にありたがたいものだと思った。
 私にはそのリアリティをとめることができないので、月並み過ぎる云い方でこう締めたい。

 フェルナンダの表現は永遠であり、私たちにそれを受け止める感性と覚悟がある限り、フェルナンダ・デ・ウトレーラの魂は不滅である、と。



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フェルナンダ・デ・ウトレーラ/おんなうた]EMI 2001年








(2)パコ・デ・ルシア/熱風

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パコ・デ・ルシア/熱風]POLYGRAM 1987年



 彼のゆくところには必ずや新しいシーンが展開し、次の時代を予言する“熱風”が吹く。


 岐路に立ったとき、鋭い直観と強い信念によって人生の選択肢を決断したパコ・デ・ルシア。
 フラメンコと自らの良心に忠実に、世間の外圧に翻弄されることなく自身を貫いたパコの生きざまは胸に迫る。

 チック・コリアやアル・ディメオラをはじめとする国際的ミュージシャンとの長年にわたる異種格闘技試合から凱旋して、フラメンコに還ったパコ・デ・ルシア。

 その回帰第一作『熱風』は、フラメンコギターのエベレストとして、また、ビートルズやピアソラなどと並ぶ20世紀音楽の傑作として、私たちの子孫らに聴き継がれてゆく名盤だ。


 パセオ創刊のきっかけが『アルモライマ』なら、この『熱風』は廃刊を阻止する精神的カンフル剤のようなものだった。

 極東のパセオでさえそんな恩恵に浴したぐらいのものだから、スペイン・フラメンコ界、とりわけプロの一流アーティストたちが与えられたインスピレーションの強大さには想像を絶するものがあったろう。

 『熱風』は、バイレ・カンテを含む現代フラメンコの潮流を決したアルバムなのだ。


 全八曲の中に『二筋の川』や『アルモライマ』のような親しみやすいメロディを持たせなかったところにパコの心が見えてくる。

 ここでのパコは、現世的な喝采には背を向け、ただひたすらフラメンコの神に、全身全霊で感謝と祈りを捧げている。





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              月とスッポン  イラストby八戸さとこ




(1)マイテ・マルティン/愛のあるところ

                         (06年8/19土社長室 より)



 「最初は何を聴けばよいのでしょう?」


 フラメンコをほとんど知らないが、ふとそれに興味を持ち始めた、やさしく美しい女性にこう尋ねられる場合は、迷わずマイテ・マルティンを薦めることにしている。



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マイテ・マルティン/愛のあるところ]VIRGIN 2000年



 私の場合、このCDを三枚持っている。
 家と仕事場と散歩用のCDケースに一枚ずつ、あたかも心臓発作にそなえるニトログリセリン的常備薬のようにそれは在る。

 誰しも、世の中の理不尽に打ちのめされることは多々あるわけだが、心の中のサンドバックを打って打って打ちまくっても心が晴れない時など、泣きぬれて蟹とたわむれながら聴くCDはマイテ以外にない。

 冒頭のむせび泣くブレリアで早くも立ち直りを予感し、ラストの夢の通い路のようなブレリアを聴くころには、悪いのは世の中じゃなくて間違えてるのは俺じゃねえの?と思えてくるから不思議だ。


 すぐにそれとわかる感受性ゆたかな歌声。
 何より響きに潤いがある。
 彼女のカンテは傷つき疲れた感情のヒダの中にそっと分けいり、美しい陰影と余韻にあふれた詩をしっとりと発散させる。

 深く歌う旋律は、魂を心底からゆさぶる。
 マイテは頭脳ではなく心で考えて、それを私たちに伝える。それによって私たちがもともと備えている魂の動機と機能が急速に回復に向かう、という仕組みなのだろうか。
 ぼんやりと耳を傾けてるだけでエネルギーがみなぎってくるのだ。

 天衣無縫な歌いまわしが決して集中力を失わないのも、常にしなやかな求心力に貫かれているからだろう。
 こうして、先ほどまで“絶望”と感じられた痛みは、その心の傷の中から生まれた“希望”へと変貌を遂げてゆくのだ。



 以上が冒頭の問いに対する私のノーガキだ。


 ちなみに私の場合、フラメンコをほとんど知らないが、ふとそれに興味を持ち始めた、やさしく美しい女性にこう尋ねられた事は二度や三度どころではなく、この22年間、不思議なことに一度もない。きっぱり。








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