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アントニオ・ガデスの想い出
アーティスト・エッセイ
◆アントニオ・ガデスの想い出
「あのアントニオ・ガデスのステージが復活した!」
秋のビエナルでも大成功を収めた、アドリアン・ガリア率いる新生アントニオ・ガデス舞踊団、待望の来日近し!
期待の高まるその
来日公演
(2007年2月)を目前に、日本を代表する人気フラメンコアーティストに、巨星アントニオ・ガデスの想い出と、彼の舞踊団の魅力について語っていただきます。
◆アントニオ・ガデスの想い出
小島 章司
(フラメンコ舞踊家)
忍耐力。多面性。初志を貫徹する強固な意志――。
アントニオ・ガデスについて考えると、このような言葉がまず頭に浮かびます。
忍耐力というのは、ガデスは決して成功ばかり収めた人ではなかったからです。
後半生こそ華やぎましたが、前半生は苦渋を味わったと言っていいのではないでしょうか。
若い頃にピラール・ロペス舞踊団でデビューし、めきめき頭角を現したのは確かです。
1964年にはニューヨーク世界博覧会でスペイン代表として踊りましたし、私がマドリードに赴いた66年には名門タブラオ「コラル・デ・ラ・モレリーア」に特別出演するほどの人気と腕前でした。
相手役は“ラ・クーラ”ことクーラ・ヒメネスでした。
とはいえ、65年にサルスエラ劇場で発表した『ドン・フアン』は事実上の失敗作に終わり、70年代半ば以降は実質的に引退していた時期がありました。
その後スペイン国立バレエ団の芸術監督を二年間務め、カルロス・サスラ監督の三部作『血の婚礼』『カルメン』『恋は魔術師』で世界中に令名を馳せましたが、ここに至るまでの苦労は並大抵ではなかったと思います。
多面性もガデスの大きな特長でしょう。
舞踊家であり振付家であり、照明デザインも手がけ、演出家でもある……。
それだけでも大したものですが、どの面でも一級品の仕事をしました。
「仕事をした」と書きましたが、ガデスにとって作品を創るのは「仕事」に他なりませんでした。
自らをアルティスタ(芸術家)とは決して呼ばず、トラバハドール(労働者)であると規定していました。
内戦勃発の年に生まれたガデスは共産主義を信奉していました。
戦争が人間形成に与える影響の大きさを思わずにはいられません。
ガデスの多面性が最も良い形で現れたのが『血の婚礼』と『カルメン』でしょう。
フェデリコ・ガルシーア・ロルカの悲劇『血の婚礼』を45分という短い時間に見事凝縮してみせた手腕にはまさに息を呑みました。
無駄をそぎ落とした濃密な様式美は千利休の茶の湯の洗練度を髣髴させるほどでした。
『血の婚礼』はとりわけ芸術家や評論家のあいだで大評判をとりましたが、もう一方の『カルメン』は芸術であると同時に大衆性や娯楽性も備えており、両者はいかにも好対照をなしていました。
そして初志を貫徹する強固な意志。
ガデスは劇場芸術としてのフラメンコを追い求め、その一つの完成形をもたらしました。
私たちがそれまで「フラメンコ」という名で知っていたものとはまるで違う世界観によって表現されたものでした。
ガデスはフラメンコの呪縛から解放された世界的な振付家だと思います。
クリスティーナ・オヨス氏も、ガデスほどの才能は「もう何年も現れない」と述べていますが、私も同感です。
アドリアン・ガリアを始め、ステラ・アラウソやエンリーケ・パントーハ、アントニオ・ソレーラらが集う新生アントニオ・ガデス舞踊団。
ガデスの遺志を受け継ぐと同時に、彼の想いは、21世紀を迎えた“今”を表現するアーティストたちによって新たな息吹となり舞台に吹き込まれることでしょう。
アドリアン・ガリアを中心に未来へ向かって羽ばたいてゆく姿を見て歴史の証人になることを私も楽しみにしています。
[執筆者プロフィール]
小島 章司
(こじま しょうじ)
1939年、徳島県生まれ。
1966年から十年間スペインでフラメンコの修行を積む。
帰国後は毎年精力的に舞台を発表。
近年の代表作に『LUNA フラメンコの魂を求めて』『鳥の歌 A Pau Casals』など。
芸術選奨文部大臣賞、イサベル女王勳章オフィシアル十字型章、紫綬褒章など受賞歴数多。
ロルカ没後70周年追悼公演『FEDERICO』(12月12日~15日、俳優座劇場)を準備中。
◆アントニオ・ガデスの想い出
佐藤 浩希
(フラメンコ舞踊家)
老人ホームで深夜のおむつ交換のアルバイトをしていたころ、アントニオ・ガデスの映画「血の婚礼」に出会いました。
福祉の仕事の中で尊厳ある生と美しい死を求めていたときでした。
このまま何の迷いも無くこの仕事に就こうとしていたときに彼の作品に出会ってしまいました。
それから毎日、学校に通う前と就寝前にこの映画を見る日々が続きました。私が福祉の中で求めていたもののすべて、いや今まで生きてきた中で求めていたもののすべてがたった一本の映画の中にありました。
物言わず足を踏み鳴らし、幽妙な手の動きで心を語る踊り手たち。内臓が唄っているようなカンテ。美しすぎるギター。
この作品に出会い何かにとり憑かれたようにフラメンコを始めた当時(1992年)彼は引退していて、すでに伝説の人でした。
しかしそれは一時的なもので95年に復活を果たし日本に来日してくれました。
私にとってビートルズが再結成するぐらいの奇跡と喜びでした。
毎晩彼の公演に足を運び、しかし極貧だった当時は、連日見に行くチケット代を払えるはずも無く、師匠のつてで知り合った、ただの顔見知りのアーティストを楽屋付近で見つけ、その後をマネージャーもしくは親友のようなそぶりをしながら一緒に楽屋から入り・・・。これ以上書いたらまずいです。
あまりの感動で毎晩ステージ前まで駆け寄り白い眼で見られていました。
それから、フラメンコの修行を続けていた私はカンテの奥地へと進み、自然と彼の創作した作品からは遠ざかっていました。
フラメンコのカンテのみならずアンダルシア地方の民謡やスペインの歌謡曲などフラメンコ以外のスペイン文化にも親しみ、少しずつ自分の仕事にも生かしつつあるころ、10年ぶりに彼の作品を改めて鑑賞しました。
そのときの衝撃は初めて受けた以上にさらに絶大なものでした。
スペインの文化を大局的に捉え描く作品。
すべての芸術家が自然から、宇宙からインスピレーションを受けその英知を人々に伝えようとする。
彼はその偉大なるものと同様に人間、民衆を捉えその生活文化を愛し畏敬の念をもってすべての作品を創作しています。
そのことを真に理解するための十年だったのかと戦慄をも覚えました。
ガデスは大スター、大芸術家であるにもかかわらず、常に民衆文化の従事者であることを貫徹し、言うまでも無く彼の作品は彼のためにあったのではなく民衆に捧げられたものです。
そんな人類の宝といってもいい作品を、彼がこの世を去りもう2度と人々が目にすることができない。大いなる芸術の損失です。
しかし!アドリアン・ガリアがやってくれました。フラメンコのために、スペインのために、そして世界中のファンのために!
アドリアンはひとりの踊り手としても不世出、自身の舞踊団を率い世界を駆け回り、また広範な知識の持ち主で、スペイン人初のフラメンコのほぼ全曲を網羅した教則ビデオを制作するなど、彼もまたフラメンコの正しい普及のために大活躍しています。
そんな彼にしかできない大仕事。ガデスの、否、民衆の遺志を引き継ぐために。
永遠に繋がる偉大なる継承に敬意を表します。
[執筆者プロフィール]
佐藤 浩希
(さとう ひろき)
フラメンコ舞踊家・振付家。優れたフラメンコ的感性と自由な精神で、フラメンコの新たな可能性を追求。他ジャンルの舞踊や音楽とコラボレーションした実験作を次々と発表してきた。
本作品で平成一三年度文化庁芸術祭優秀賞受賞。一九九八年「レモン哀歌 ~智恵子の生涯」以降、鍵田真由美のパートナーとして、全作品に演出・振付・主演で参画。フラメンコの伝統や土着性に根ざした作品「ARTE Y SOLERA 歓喜」で平成一六年度文化庁芸術祭大賞を受賞。鍵田との公演活動は、本場スペインでも積極的に行なっており、その実力は高い評価を得ている。
一九九六年、河上鈴子スペイン舞踊新人賞、同年日本フラメンコ協会新人公演で史上初の特別奨励賞等、多数の受賞。
◆アントニオ・ガデスの想い出
鍵田 真由美
(フラメンコ舞踊家)
クリスティーナ・オヨス、ステラ・アラウソを最良のパートナーとして、フラメンコの舞台史上最高といわれる作品を創作し歴史を築いてきたアントニオ・ガデス。
私はその作品を観たとき、座ったままではいられませんでした。
立ち上がり心の底から拍手を送るということを初めて経験しました。
私をそうさせたのは何だったのでしょうか・・・。
出演者、スタッフ、観客に至るまでその舞台に関わったすべての人々が同じテーマに向かって全力をおしみなく注ぐ。
ガデス作品が持っている強いメッセージにその空間と時間を共有している人たちが一丸となりエネルギーを吹き込むのです。
舞台上で繰り広げられる大小さまざまな人間ドラマを見ているうちに、客席にいる私もそこに生きていることに気がつきました。
ガデスの魔法は見えない粉になって劇場いっぱいに降り注ぎ、全員を主役にしてしまう。私は観客ではなく作品の中に確かにいました。
ガデスの魂は私に夢と現実をやさしく、厳しく教えてくれたのです。
今は亡きガデスの後を継ぐのはアドリアン・ガリア。
フラメンコのみならず“舞踊”に精神をむかわせている彼の肉体は、ガデスの呼吸を自分の体にゆき渡らせているステラ・アラウソとともに、ガデス作品にどう挑戦するのでしょう・・・。
彼は選ばれました。
ガデスの心と対話しながらきっとアドリアンにしか表現することのできない作品に仕上がるに違いありません。
期待に今から胸が膨らみます。
アントニオ・ガデスに感謝します。
[執筆者プロフィール]
鍵田 真由美
(かぎた まゆみ)
フラメンコ舞踊家、振付家。しなやかで強靭な肉体と豊かな表現力で、その実力は日本─スペインで高い評価を得ている。
また、数々の意欲作を発表しており、日本の創作フラメンコの新しい時代を、夫であり踊りのパートナーでもある佐藤浩希と共に築いてきた。
一九九〇年河上鈴子スペイン舞踊新人賞、一九九八年「レモン哀歌 ~智恵子の生涯」で平成一〇年度文化庁芸術祭新人賞、本作品で平成一三年度文化庁芸術祭優秀賞、「ARTE Y SOLERA 歓喜」で平成 一六年度文化庁芸術祭大賞等多数の受賞。
音楽舞踊新聞が選出する「ベストダンサー」の一人にも複数回選出されている。スタジオ、アルテ イ ソレラを主宰。ビデオ、本も多数リリースされており、幅広く活動している。
◆アントニオ・ガデスの想い出
鈴木 敬子
(フラメンコ舞踊家)
2004年7月20日火曜日。
あの日、ちょうどセビージャに滞在していた私は、夕方のニュース速報でアントニオ・ガデスの亡くなったことを知りました。
その速報をみたとき、ひとつの時代が終わってしまったような寂しさに襲われました。
そして、この歴史に残る日にスペインに居た偶然を、一生忘れられないだろうと思いました。
アントニオ・ガデス舞踊団が来日するたびに私は、できるだけたくさんの公演に足を運びました。
ガデスの舞台は、舞踊家としてはもちろんのことですが、構成・演出・音響・照明効果・作品における演技など、何から何まで学ぶことが出来る素晴らしいステージでしたから、何回観てもこれで足りるということは決してなかったのです。
その頃の舞踊団には、若き日のマリア・パヘスやラロ・テハーダの他にも、重要な脇役であるベテランのエンリケ・パントハたちが唄と踊りで作品に深みを加えていました。
ガデスのライブステージでは、どの作品を観ても、観終わった直後に、思わず立ち上がって惜しみない拍手をしたくなるような衝動がこみ上げてきたものです。もちろんそれは私だけではなかったと思います。
アントニオ・ガデス舞踊団は、世界中にフラメンコの大きな感動を伝え続けていたのです。
素顔のアントニオ・ガデスはまったく飾らない人でした。
1995年に来日していた時の事です。
公演がオフの日に、ガデス舞踊団の以前から知り合いだったアーティスト達と新宿でビールを飲んでいると、なんとガデスがコンビニのビニール袋をぶら下げながら、向こうから歩いてきたのです。
そして、私たちを見つけるなり、お店に入って来て、
「僕にもビールを一杯!」
それまで面識のなかった私は、本物のガデスにドキドキしました。
「わぁー、ガデスがきたぁー・・・」
すかさず仲間のアルティスタがガデスを紹介してくれました。
陽気に賑やかに喋るアルティスタの中で巨人ガデスは、真摯で純朴な印象でした。
初対面の私に、「将来、日本にフラメンコの学校を創りたい」と、真剣なまなざしで相談を持ちかけてくれたことは驚きでした。
今年の9月にセビージャで開催されたビエナル・デ・フラメンコで、新生アントニオ・ガデス舞踊団の公演を観ることができました。
アントニオ・ガデス舞踊団を引き継いだアドリアン・ガリアは私の友人です。
この舞踊団で踊ることになるまで、彼は日本に4年間住んでいました。
アドリアンとは、日本とマドリッドで一緒に踊ることができました。
当時、彼は私によくこんなことを言っていました。
「日本に来るまでは嫌になるくらい踊ってきた。それはそれで良いことだけど、少し疲れたよ。僕はフラメンコが生まれたスペインではなく、他の国に住みながら、じっくりと自分のフラメンコを考え直してみたかったんだ。次に来る僕自身の新しい時代のためにね。」
そうか、そう言えばギターのサビーカス、踊りのカルメン・アマジャ、アントニオ・ガデスだってスペインには住んでいない時があったなぁ・・と。
さて、スペインで私が観たアドリアン・ガリアとステラ・アラウソを中心とした舞台についてです。
幕開きからカーテンコールまで、あのアントニオ・ガデスが与えてくれた感動が、ほんとうに見事に蘇りました。
おもわず立ち上がり、拍手を送るその瞬間、先の伝説的なアーティスト達とアドリアンの考えが、私の中でひとつに結びついたのです。
アドリアンは答えを見つけたんだ!アドリアンにとっての新しい時代とはまさしく今なんだ!と。
そして、会場は「ガデスを尊敬し、愛していた」というみんなの思いがひとつになった様な感動につつまれていました。
私の目には、会場に渦巻くそんな空気の中に、アントニオ・ガデスが浮かび上がったように見えました。
アドリアン率いる新生アントニオ・ガデス舞踊団。
今度は日本でじっくり楽しみたいと思っています。
[執筆者プロフィール]
鈴木 敬子
(すずき けいこ)
高校卒業後に渡西し、スペイン舞踊全般を学ぶ。
王立劇場でのサルスエラの主演、各地の劇場、タブラオ、テレビ等で活躍し、88年にはフラメンコ最大の祭典「ビエナル」にソリストとして出演。
89年に帰国後、スタジオ「カデーナ フラメンカ」を主宰し、公演活動を展開。93年と96年にアントニオ・カナーレス、98年にハビエル・バロンらと共演。また多数の教則ビデオ・CDにて監修・監督を務める。
日本フラメンコ協会理事。
◆アントニオ・ガデスの想い出
石井 智子
(フラメンコ舞踊家)
もう二十年以上前のことです。
まだ高校生だった私は、映画『カルメン』を見て、その全てに衝撃を受けました。
今のように、日本でフラメンコの映画やCDなど出回っている時代ではなかったので、当時フラメンコ狂だった私は、『カルメン』の映画のビデオを手に入れ、毎日のように鑑賞していました。
私のなかでアントニオ・ガデスは、ヒーローそのものでした。
鋭い視線、ぐっとお尻が入り、反り返った背中、そのポーズ姿は、それだけですでに芸術でした。
ガデスという名前を聞くだけで、私の脳裏にはその姿が浮かび上がります。
その後のアントニオ・ガデス舞踊団の来日公演は欠かさず足を運びましたが、今でも頭に鮮明に残っているのは、『カルメン』と『血の婚礼』です。
当時のその鮮烈な印象は忘れられないものですが、現在のように、スペインでも日本でも、さまざまなフラメンコの新しい舞台作品が上演されるたびに、逆にガデスの作品の突出した素晴らしさを改めて思い知らされることも多いようです。
一つの作品の完成までに長い年月を費やしたと聞きますが、『血の婚礼』は何と完成までに十年以上かかっているそうです。
フラメンコの作品を舞台芸術として完成度の高いものにすることが、どれだけ大変なことかが伺い知れるエピソードですね。
また同時にガデスは、舞踊家として踊るだけでなく、演出、振付け、照明に至るまで、類い稀な才能を発揮してたのですから、これも驚きです。
私のように踊るだけで精一杯なんていう者にとっては、神様のような人なのです。
よく話題にもなる、『カルメン』におけるタバコ工場での女たちの闘いのシーン。
『血の婚礼』における、まるで絵画を見ているような美しい記念写真のシーン。
最後のレオナルドと花婿の決闘のシーンを、舞台で初めて観た時は、体が硬直して、息をするのも忘れて観入ってしまったことが思い出されます。
あれから私にとって、ガデスに変わる存在の男性舞踊家は現れてはいません。
スペイン人の超絶サパテアードや回転、のりのりなアイレに「わぁ、すごい!」と感動することがあっても、心を揺さぶられるような舞台作品にはなかなか出会えませんし、ガデスのように存在そのものに芸術を感じさせてくれるような、気品のある舞踊家にも残念ながらなかなか出会うことができないでいます。
さて、新生アントニオ・ガデス舞踊団誕生のニュースに、喜びを感じられた方はたくさんいらっしゃることと思います。
もう、あの素晴らしい作品をライブで観ることはできない、と誰もがそう思っていたからです。
そう、ガデスが全身全霊をかけて創りあげた作品を再び目にする機会が私たちに与えられたのです。
主役はアドリアン・ガリア。
ガデスのモノ真似ではなく、その精神を受け継ぐという彼の言葉は、私たちの期待をさらに募らせます。
私はそのアドリアンのその決意を、とても頼もしくそしてうれしく感じました。
古くからのガデスファンはもとより、その伝説や映像は知るもののそのライブには直接触れることの出来なかった新世代のフラメンコファンの想いもまた、私と同様なのではないでしょうか。
[執筆者プロフィール]
石井 智子
(いしい ともこ)
日本大学芸術学部演劇科洋舞コース卒業。5歳からバレエ、9歳よりフラメンコも共に学ぶ。
14歳で小松原庸子スペイン舞踊研究所に入所。その後、舞踊団員として定期公演やスペイン各地の公演に参加、スペイン人一流アーティストとも共演する。又、公演以外でも頻繁に渡西し、数多くのスペイン人に師事。
その後、同舞踊団を退団。現在では、主宰する石井智子フラメンコスタジオで後進の指導にあたりながら、様々な舞台やショーで活躍を続けている。